沖縄本島南部戦線跡

1967年07月20日〜08月29日 41日間


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徒歩旅行』 沖縄本島、石垣島経由ではあるが、当時、日本のガラパゴスと呼ばれ日本最後の秘境である ”西表島”に行く事であった。
沖縄本島に渡る
  神戸発の貨客線に乗船したが、船速が遅いことと、各島にて荷物の揚げ降ろし作業があり、
沖縄那覇港に着くまでは船酔いに苦しめられる3日間の船旅となった。
石垣島への船便が少ない
  那覇港から石垣港への船便が少なく、那覇港からすんなりと石垣港へ行きたかったのであるが、
那覇港に着いて次の石垣港行きまでは1週間待たされることになる。
沖縄南部徒歩旅行
  那覇近郊の観光だけでは時間が潰せずに、南部戦線跡巡りを兼ねて沖縄南部を徒歩で旅行することにした。 木陰の無い真夏の炎天下を歩くのは体力勝負であったが、色々な方と出会い、色々な経験が出来た。 ”ひめゆりの塔”の伝記では涙も流した。

沖縄徒歩旅行(その1)
Sea Map  :各島停船の貨客船であったので、神戸港から那覇港まで3日間掛かった。
Route Map:那覇港に上陸後は親戚の家を基点に那覇観光をする。

石垣島、西表島、沖永良部島
(高校3年生 18歳)
沖縄渡航へのパスポート取得
  当時、沖縄、先島諸島はアメリカの統治下にあり、沖縄に渡航するにはパスポートが必要だった。
まずはパスポートの取得に苦労する。 現在の様にネットで調べることは出来ずに旅行ガイドブックで
取得方法を調べるのであるが、旅行会社を通した旅行ではないので、まずは神戸元町の旅券事務所に
申請用紙を貰いに行く。 全てが英文であり、その場では記入することが出来ずに持ち帰り記入する。
英語が判らないまま記入して、1回目は却下され 2回目の申請でパスポートを手にすることが出来た。観光ビザで30日間の滞在が許されていたが、沖縄で長居して30日を越えてしまい、強制退去の判を
押されたが、罰則は無かった。
写真フイルムをどうするか?
  2年前の高校1年生での九州1周サイクリングでは、高いカラーフィルムを買うことが出来ず、白黒フィルムで我慢したが、沖縄でコバルトブルーの海を見るのであれば、是非ともカラーフイルムを持って行きたかった。 ネガフィルムよりポジフィルムの方が若干安いことが判り、手持ちのフィルムを
全てポジフィルムとした。
7月20日 初日、神戸港を出航する。
  高校の1学期の終業式を午前で終えて、キスリングに荷物をパッキングをする。
荷物はテント自炊道具を含めて20kgを越えてしまった。
沖縄ではドルが必要なので銀行に行って円をドルに変更して貰う。 当時の為替は365円/$であった。
同級生の友達が沢山、見送りに来てくれて、幾ばくかの餞別も頂いた。
2等船室は雑魚寝なので、場所取りは早い者勝ちでる。 夕刻の6時10分に出航する。
 2等船室には窓が無く、ディーゼルエンジンの振動とオイルの焼けた匂いが充満していて居心地は最悪である。
瀬戸内を航行している間は船に揺れは無かったが、概要が近付くと船が揺れ出して来る。
  7時23分頃に夕食が配られるが、食欲が出る物ではなかった。
7月21日 2日目、船酔いに苦しむ。
  5時15分に目が覚める。 硬い床に直接寝て居たので、体の節々が痛い。
外に出ると四国最南端の足摺岬が見えた。 朝食が配られるが、食欲がない。
琉球列島上陸許可書と携帯品申告書を書かされる。
  筋トレで鍛えた体も太平洋のうねりには勝てず、船酔いを仕出した。
朝食は魚の餌になってしまい、昼飯は食べられずに、持参のリンゴをかじって飢えをしのいだ。
7月22日 3日目、名瀬港、古仁屋、亀徳港に寄港する。
  夜中の3時に目が覚めると、おいらの毛布に女子大生が転がり込んでいた。 高校生には刺激的であった。
「奄美大島名瀬港に間もなく着きます。」の船内放送があった。
貨客船なので荷物の積み下ろしの時間は下船することが出来て、名瀬の町を散歩することが出来た。
  古仁屋には大きな港が無いらしく、荷物の積み下ろしははしけで行っていた。
徳之島の亀徳港にも寄港する貨客船であり、船速が遅いのに輪を掛けて時間が掛かる。
  やっと船内に女の娘の話し友達が出来た。 俺達と同じ貧乏旅行で石垣島まで行くらしい。
お姉さんと喋っていると時間が経つのが早かった。
7月23日 4日目、那覇に最初の1歩を記す。
朝方の4時半、誰かが「沖縄に着いた!」と騒ぎ出すと船内がざわざわ仕出す。
マズイ朝飯を食べると入管手続きが始まる。 色々な書類にスタンプを貰い、上陸が許可される。
冷房が効いていた船室から船外に出ると、南国らしい湿度の高い熱気に包まれる。
  下船してから泊港に石垣島行きの船便を調べると、30日まで無いことが判る。
1週間の船待ちアイドルは予想出来居なかった。 次の船までは那覇の親戚である兄嫁の実家に
世話になるしかないだろう。 地図を片手に、歩いても行けるだろうと思ったが、意外と遠かった。
沖縄はアメリカと同じく、右側通行であり、対向車が突っ込んで来る錯覚に陥り、道路を歩くのが怖かった。
那覇港から親戚の家は遠く、着いた後にバスにすれば良かったと後悔する。
  親戚に挨拶して数日、お世話になることを伝える。
久し振りにお風呂を頂き、暇潰しに付近を散歩して、国際通りに向かう。
  商店街で売っている物に面食らう。 真っ黒に燻製されたウミヘビ、丸まるのブタの頭、魚は全て熱帯魚であった。 かき氷を食べるのにセットで支払うと、高いのか安いのか判らなくなってしまった。
7月24日 5日目、那覇の海水浴場で泳ぐ。
  今日は石垣島行きの発券日なので、泊港まで切符を買いに行く序でに、那覇の海水浴場で泳ぐことにした。
昨日、泊港の発券所に聞いた時は今日からの発券と言っていたのだが、今日、発券所に行くと明日からと言われた。
まずは海岸線沿いに建つ ”波上宮”に行ってみる。
後ろに見えているのが、先ほどお邪魔した ”波上宮”。
陽射しが強く、日焼けには要注意であった。
相棒は予備焼きしていないので、この行為は命取りである。
顔を出している子供と比べると、肌が白いのがよく判る。
左の白黒写真を疑似カラー化してみると、カラー写真の様に
見事にカラー化された。
相棒のカメラには白黒フィルムが入っているので、海の色が判らない。
同じく、疑似カラー化してみたが、海の色は上手く変換されているのに、
背中の肌色は病的な色になってしまった。
同じく相棒の白黒写真。
  親戚宅に戻り、行水してから、昼寝をする。
夕方、首里城に行こうとバス停に行くが、どのバスに乗って良いのか判らずにリタイヤする。
  屋上で涼んでいると、隣の家から煙が出て来た。 最初は風呂でも沸かしているのかと思っ
ていたが、煙がどんどん増えて行くので火事だと判った。 消火活動に走り回るが、複雑な建屋の 家に何も出来ず、消化活動には参加出来なかった。
7月25日 6日目、沖縄南部の戦線跡を徒歩旅行する。
  いつまでも親戚宅でダラダラしている訳には行かず、自転車を借りて泊港までの前売り
キップを買いに行き、石垣島行き出航までの4日間を沖縄南部を歩いて回ることにした。
自転車2台を借りる手はずを取ったが、1台は直ぐに来たが、もう1台が中々届かず、
自転車を諦めて徒歩で南部を1周することになってしまった。 午後1時に安里の親戚宅を出発する。
おいらはテントの袋に荷物を減らして担ぐことにしたので少しは負荷が少ない。
汗がダラダラ出て小便が出ない程に体から水分が抜けて行く。
先祖代々の墓なのだろうか?。沖縄の墓はびっくりする程にデカかった。
本島南部を右回りに歩く。 日影が無く、沖縄の真夏の晴天は半端なく暑い。
相棒はキスリングの全ての荷物を背負って来た。
”知念半島”の海岸線で出る。 沖縄の海岸らしいきのこ岩が面白かった。
コバルトブルーの海を撮るには、やはりカラーフィルムが必要であった。
峠道の高い位置から ”奥部島”見る。 ”奥部島”とは橋で繋がっているいる様だ。
歩いている途中に食堂が無く、朝食抜きとなってしまった。
これが沖縄のお墓の上であり、展望台の様な感じであった。
豊里集落に食堂があったので昼飯にあり着く。 食堂でお塩を貰い、塩分補給をした。
具志堅の集落に入ると舗装道になってくれたが、歩くスピードが変わる訳ではない。
沖縄戦で一番戦闘が激しかったと言われている ”摩文仁の丘”に着く。
今回はここに来ることが目的だったので、周囲を散策しているとお土産屋さんのおばあさんが
戦時中の話しを延々と語ってくれて、涙が出てしまった。
”摩文仁の丘”には各県の戦没者慰霊の塔が立っており、兵庫県の慰霊碑もあった。
戦争当時、ここの沖合に米軍の艦船が集まり、丘の形が変わる程に艦砲射撃をされたらしい。
知念小学校に泊めて頂く。
  知念半島の半周を歩き終えて日暮れて来たので、たまたまあった小学校に宿泊のお願いをすると、
あっさりと了承いただいた。 先生の話だと那覇から知念小学校まで20kmの距離があるらしい。
距離を所要時間で割ると、時速3.3kmとなった。 休憩時間も含んでいるので早い方だろう。
7月26日 7日目、沖縄南部の戦線跡を巡る。
  ぞうり履きで歩いたので、足の指は靴擦れなれぬ草履擦れで酷いことになっていたので治療する。
先生のお礼を言って知念小学校を出発する。
  途中で米軍基地が出て来たので不信に思い地図を調べると2km程違う道を歩いていた。
往復で4kmで、1時間程のロスをしてしまった。
  バキュームカーが止まってくれて 「載って行かないか?」と誘ってくれたが、歩いて行きたかったのでお断りした。 特にバキュームカーだからとの理由ではない。
米須集落を過ぎた辺りに ”ひめゆりの塔”があったので寄ってみる。
夕暮れて来てカラー写真なのに白黒写真の様になってしまった。
石碑を読んで行くと涙が出て来る。 塔の前には玉砕した壕もあった。
これは2018年12月19日に ”ひめゆりの塔”を再訪したもであるが、
”井原第三外科壕”が塔の目の前にあることをこの時に知った。
 今日は朝から6Lの水を飲んでいるが、全てが汗に代わり小便はまったくしなかった。
つまり、汗と小便は同じ成分なのだろう。
夕暮れてしまったので ”ひめゆりの塔”から少し引返した 米須小学校に宿泊をお願いすると、
気が抜ける程に簡単に泊めて貰えることになった。 シャワーで体を洗っているとハエくらいの
びっくりする位の大きなヤブ蚊に一杯刺された。 敵討ちに6匹の蚊を殺す。
7月27日 8日目、糸満を通り、那覇に帰る。
  教室を片付けて、先生に礼を言って 8時15分に歩き始める。
午前中は背中に陽が当たりクソ暑い。 今日もたっぷりと汗を掻く1日が始まる。
糸満の海岸の沖の方に馬が涼んでいるのを見てビックリ!
沖縄には超美人が多いのであるが、糸満の漁師に超男前が沢山いた。
那覇市街に戻って来ると米軍の空港があり、戦闘機が沢山並んでいた。
夕立が降って来て雨宿りに大きな橋の下に潜ると、土方3人が先行して雨宿りをしていた。
沖縄の方言で喋る土方達とは会話にならず、何を言っているのか半分も判らなかった。
夕立が止んでからは親戚の家に戻る。
7月28日 9日目、殆ど何もしていない日、午後に守礼の門に行く。
  沖縄南部を歩いている内に6回も自動車に乗って行くかと誘って貰ったが、最初の1回だけ、
少し自動車に載せて貰たが、後は全て断った。
  親戚の家に戻ったのは午後3時45分、汗で汚れた衣服を洗濯する。
血は繋がっていない三女とは同い年で、ここに来た時から一目惚れしている。
  デートをしたくてボーリングに誘ううと、相棒も弟も付いて来ることになってしまった。
午前中は親戚の家でゴロゴロと過ごし、昼から ”守礼の門”へ歩いて行く。
歩いて1時間程の距離に ”守礼の門”があったが、一目で騙されていたと思った。
絵ハガキで見る ”守礼の門”は ”守礼の門”だけが綺麗に写っているのであるが、
実際に見る ”守礼の門”は周囲に大きなビルが立ち並ぶ中にあったのだった。
那覇観光でブラブラ歩いていると夕暮れて来たので再度 ”守礼の門”に行ってみた。
7月29日 10日目、何にもしなかった1日となる。
  行きたい所は無く、本当にゴロゴロしているだけの1日になってしまった。
我々の滞在が長いので親戚の親父が段々と不機嫌になって来た。
明日の石垣島行きには乗りますので、もう少し、御辛抱下さい。
  長い長いアイドルでやっと石垣島行きの船が出る日になった。
部屋に広げていた荷物を片付けて、キスリングにパッキングをする。
那覇でお米を購入したので、お米の分だけ荷物が重くなってしまった。
親戚とはしばしのお別れとなるので親父を覗いた家族と記念写真を撮っておく。
7月30日 11日目、やっと石垣島行きの出航日となるが・・・
親戚の家の屋上で記念撮影を行う。 親戚とは言え、血縁関係は無いので、
俺と同じ歳の三女と結婚することは可能である。 と夢を見る!
沖縄の人は顔のパーツが大きく、パーツの配置を間違えば酷いことになるが、
正しく配置されれば、超美人になる。 那覇市街のデパートにはモデルの様な
美しい従業員が沢山居た。
今日の石垣島行きは欠航だった。
  泊港まで歩いて行こうとすると、おばさんがタクシーで行きなさいとタクシー代まで頂いた。
泊港に着くと乗客の姿が無く、港はガラ空きだった。 事務所に聞きに行くと「エンジンの調整で出航が1日延びた。」とぬかしやがった。 出航を6日間待って更に1日伸びた! 暴れたい気持ちになったが、暴れてもしょうがないので、盛大に見送ってくれた親戚宅に引き返す。
真夏の沖縄でスケートをする。
 当然のアイドル日となってしまい、那覇にスケート場があると聞き、三女をスケートに誘ってみると、友達を誘ってくれてスケートに行くことになった。 初対面でも手を繋げるのは社交ダンスとスケートだけである。 相手の気持ちは判らないが、これはデートだと思い楽しく過ごせた。 スケート後に喫茶店に入ると、偶然、親戚の次女と会い、スパゲティとコーヒーを御馳走になった。 石垣島延期の立腹も、その後の楽しさに少しは和らいだ楽しい1日に代わった。
7月31日 12日目、やっと石垣島行きの出航日となる。
  那覇港に着いて石垣島行きの船を待つこと7日目にやった出航出来ることになった。
なんと効率の悪い旅行だろうか。 朝刊の天気図を見ると、鳥島付近に熱低が発生しており、
これからの天気が思いやられる。 船も大きく揺れるかも知れない。
沖縄41日間徒歩旅行 ”その2”に進む。
那覇泊港より ”十八丸”にて石垣港へ渡る。14時に乗船開始となるが、
大きなキスリングで2等船室の場所取り合戦に出遅れてしまう。
残念ながら、我々には誰の見送りも無かった。