石垣島、沖縄本島、沖永良部島

1967年07月20日〜08月29日 41日間


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徒歩旅行』 ついに目的地である日本最後の秘境 ”西表島”に上陸出来たが、波乱万丈となった。
八重山病院で手術して貰い通院する
  夜に八重山病院に飛込み、切開手術をして頂き、先生からお寿司を御馳走になり、宿泊までさせて頂いた。 5日間の通院治療もあったのに、結局、治療費は無料として頂いた。
通院している間は平得集落の公民館を借りる
  区長の奥さんから何日でも使って良いの許可を貰って、平得をベースに通院生活を始める。兎に角、区長の奥さんとその友達の良い人に出合えて、朝に夕に御馳走になり、洗濯も援助頂き、人の温かさを感じた5日間だった。
沖縄北部の米軍保養地に行く
  血はまったく繋がっていないが、那覇の親戚から紹介頂き、まったく予定外であったが、
沖縄北部の辺士名にある米軍保養地にあるV・O・Aで仕事している親戚宅にバスで行く。
  部外者立入禁止の米軍保養地にはアメリカ人ばかりで、日本人は親戚だけと思えた。
近くにはダイビングスポットがあり3日間を潜り三昧で過ごす。
沖永良部島に渡りケービン体験をする
  相棒は精神的に弱って来て帰りたがっていたが、俺の最後の目的である沖永良部の鍾乳洞探検をすることになった。 ケービングの装備は何も無く、下手をすれば遭難するところだった。
41日間、1度も有料施設で宿泊しなかった。
  テント地の重いテントを担いで行ったのであるが、テントは一度も張らずに、旅館等の有料施設には1度も泊らずに、人の温かい親切で41日間を切り抜けた。
旅行費決算
  交通費合計:2,276円、宿泊費:0円、食費:3,549円(1日平均:88円)、お土産:0円
お土産は海で採ったパイプウニ、タカラガイ、サンゴ礁で済ませた。
親、兄弟、友達から集めた餞別金より安く上がり、黒字となる旅行が出来た。
沖縄徒歩旅行(その3)
Sea Map  :昨日、西表島の祖納港から石垣島の石垣港に戻り、八重山病院へ直行する。
Route Map:定番の川平湾公園、竹富島を観光する。

石垣島、西表島、沖永良部島
(高校3年生 18歳)
足のキズの化膿で、予定より早く西表島を去ることになる。
  海岸の貝がらで切った小さなキズが高温多湿のジャングル歩きで化膿してしまった様で腫れて歩けなくなってしまった。 西表島の診療所では手に終えず、石垣島の大きな病院で治療してもらうことになった。  相棒には大変申し訳ないが、行動としては石垣島へ付き合って貰うことになる。 つまり介護である。
8月13日 25日目、人の親切を大いに感じる1日であった。
8月12日 24日目、平得集落の公民館を借りて通院生活が始まる。
  朝、目覚めると外は暴風雨になっていた。 今日は日曜日で通院が無い日なので助かった。
雨の中、田底さんが何度も往復して朝飯を運んでくれた。 親切が身に染みる。
洗濯機を借りての洗濯も殆どやってくれた。 田底さんはクリスチャンなのか、教会に行くと言うので暇潰しについて行くが、無宗教なので賛美歌は歌えず、談話?も耳に入らない。 場違いの所に行ってしまった。
日記に書いた話は沢山あるが、長いだけなので割愛しておく。
昨日、西表島の祖納港を出航して、夕刻に石垣港に戻り、八重山病院に直行した。
  昨夕は石垣港からタクシーで八重山病院に直行して、緊急手術をして貰った。
手術後、主治医の先生の石垣市街でお寿司を御馳走になり、宿泊に保健所を紹介して頂いた。
  しばらくは通院が必要だとのことで、通院出来る範囲の所で宿泊させて頂く小学校、公民
館を探すと、病院から近い平得集落に大きな公民館があったので管理人に事情を話しすると、
何日でも使いなさい。の許可を頂いた。
何日でも使って良いとの許可を頂いた 平得集落の公民館。
管理人の ”田底さん”からは、飲み水、食事等、色々お世話頂いた。
2人の荷物、20kg×2を広げると、相当な量であることが改めて判った。
公民館の前は広場になっており、コンクリート製のすべり台があった。
すべり台の横に何かぶら下がっていたので見に行くと空の砲弾だった。
  病院で借りた松葉づえでびっこを引きながら通院するが、診察券を貰っていない。
看護婦さんに診察券の無いことを話しすると、待ち人が沢山なのに優先的に診察してくれた。
待ち時間無く、直ぐに診察してくれるのは有り難いのであるが、何か変! と感じた。
  ヒッチハイクで帰ろうと車に手を振るが誰も止ってくれない。 ガソリン代がたったの
1L 8¢(約30円)なのにけち臭い運転手ばかりであった。
  管理人の奥さんが ”小松ビーチ”に海水浴に行くが、一緒に行くか?と誘ってくれたが、おいらはケガをしているからと1人残されてしまった。 一人残されていると知った管理人の奥さんの友達の奥さんが、おやつでも食べに来なさいと声を掛けてくれて、その稲福さん宅でアイスクリームとパイナップルを御馳走になる。 標準語で喋っているつもりであるが、大阪弁を聞くのが楽しいと言っていた。
  何しなかった、出来なかった1日であったが、稲福さん宅にお世話になっている大学生が西表島横断から帰って来たの言うので稲福さん宅に遊びに行くと、その大学生とおいらの旅行に対する考えが違い、旅論争になる。 話が長過ぎるので割愛しておきます。
  稲葉さん宅のおじいさんから沖縄の人とは絶対に喧嘩をするなと注意された。
沖縄の人は小学生から空手を習っているので、喧嘩するとボコボコにされると言うのだ。
8月14日 26日目、今日1日、色々あったが、割愛しておく。
  田底さんから朝飯が出来ているから食べに来なさいと声を掛けて貰った。 美味しく頂く。
通院の為に国道を歩いていると、病院関係の車が拾ってくれて、助かった。
今日も優先的に診察頂いて、待ち時間が無く、助かった。
  病院の裏庭で沖縄民謡ショーをやっており、エレキ三味線をメインに綺麗なお姉さん方が踊りを見せてくれた。 合間にコントが入るが、沖縄方言のコントなので、面白さはまったく伝わらなかった。
  今日も田底さん、稲福さんの有難い親切攻撃は続いた。 毎日が感謝です。
8月15日 27日目、石垣島の景勝地、川平湾に行く。
  今日はバスに乗って病院へ行く。 今日は先生が不在で、新人看護婦が包帯を取り換えてくれるが、包帯を落としたり、包帯をメチャクチャ蒔いてくれたりで、包帯を使い果たしてしまうので 「慣れていない様ですね!」と声を掛けると、「学校を出たとこです。」と言う。 なら、学校で何を教わったの?
  バスに乗って石垣島一の景勝地だと言われている ”川平湾”に行くことにした。
8月16日 28日目、竹富島に行く。
平得集落からバスに乗り、石垣市街のバスターミナルで川平方面に向かうバスに乗り換える。
2013年3月に再訪した時の観光化された川平湾(かびらわん)。
展望台の目の前に広がる ”ムクバナリ”の見事なコバルトブルーの海。
遠くには2013年3月に登った ”野底岳”標高282mの尖がりが見えていた。
川平湾の奥までコバルトブルーに染まっていた。 真っ白な砂浜も綺麗だった。
今では観光化されて想像出来ない、遊覧船もグラスボートもない時代だった。
”クモガイ”、”イモガイ”が見られたが、貝殻の様に思えた。
水産研究所があり、中を覗くと生簀があったので見学させて貰う。
岩の様に見えるが、これは2匹の ”モンゴウイカ”だった。
石垣島では一番の景勝地であるが、まだ、まとまった
観光資源は投入されていない時代であった。
  今日は竹富島へ観光に行こうかと思うが、その前にお世話になりっぱなしの田底さんと稲福さんと記念写真を撮っておく。
お2人さんには、平得公民館をお借りしている間は食事に洗濯にお世話のなりっぱなしだった。
御近所の稲福さんは数十年後に石垣島を再訪した
時には娘さんと民宿を経営されていた。
公民館の管理人の奥さんである 田底さんは毎日の様に
朝飯を作って頂いた。
テレビゲームの無い時代、どこに行ってもガキンチョが集まって来る。
おじいさんの三味線を借りて、弾く振りだけをする。
石垣港10時発の連絡船で竹富島に渡る。
竹富島で一番標高が高いである竹富小学校の2階に上って見る。 西表島の山並みを見ることが出来た。
竹富島の最高地点はたったの33mであり、50mの津波が来れば全滅してしまう島だった。
意味不明?
当時の竹富島は、現在の様に観光整備されている訳ではなく、観光資源的
なものは何も無かった。 写真は竹富町出身者の戦没者慰霊塔であった。
相棒はモクマオウのジャングルを抜けて海岸へ泳ぎに行ってしまった。
おいらは海に入ることが出来ずに留守番となる。
海に潜りに行った相棒は何も獲れなかったと早々に帰って来た。
暇潰しで輪投げをして遊ぶ。
これは平得の公民館に戻ってから写真であるが、我々のキスリングを子供が担ぐとキスリングの大きさがよく判った。 キスリングを担いだ状態では子供は歩くことが出来なかった。
  今日は石垣島を離れて那覇に向かう日なので、治療費の精算に八重山病院に向かう。
担当の先生は不在だったので、担当の看護婦さんに治療費の精算を申し込むと、軽く「いいですよ!
と言ってくれた。 診察券を発行して貰い無い時点から何か変だと思っていたが、先生は鼻から治療費を取るつもりはなかったのだ。 お寿司まで御馳走頂いて、先生には感謝しか無かった。
  公民館に広げた荷物を整理してキスリングにパッキングする。 大変お世話になった田底さんと稲福さんにお礼を言って、石垣港行きのバスに乗るが、大きなキスリングが邪魔をして、中々、満員のバスに乗車出来ない。 石垣港での乗船も同様に2等船室の場所取りに負けてしまう。
  田底さん達が見送りに来てくれているかも知れないと思い、見送り者から探すが見付からなかった。
もう一度、お別れの挨拶をしたかったのに残念だった。
  船室に戻り、横になっていると寝てしまい、起きた時には船は出航していた。
8月17日 29日目、那覇に帰る船に乗る。
高台に在った展望台の売店でかき氷を食べる。 吹き抜ける風が涼しくて
至福の時であったが、徒歩旅行に来たのに歩けないのが残念であった。
8月18日 30日目、那覇に戻るが・・・
  6時に目が覚める。 久し振りに良く寝たが、船酔いで朝食を食べれなかった。
泊港に10時に船が付き、那覇市街で今川焼とアイスコーヒーで朝食とする。
  親戚の家に戻るが、どうも様子がおかしい。 明日には親戚連中の寄り合いがあるので、今日1泊で
部屋を開けて欲しいと言い出した。 ここの親父は我々の居候が気に入らない様である。
色々と親父と揉め事があり、今日には出て行くことにした。
  行く当てもなく、ブラブラと最初の南部戦線跡巡りを歩いていると、小さな集落があり、公民館を宿泊に貸してほしいと区長さんにお願いすると、それなら家に泊りに来いと歓待してくれた。
  仲井真集落にある農家で赤嶺さんと言うらしい。 おとなしい人ばかりであまり喋ることが無かった。
8月19日 31日目、沖縄北部に移動する。
 昨日は親戚の家を追い出され、路頭に迷って 仲井真集落で公民館を貸して貰える様に嘆願すると
家に泊れと自宅に招待して頂いた。 捨てる神あれば拾う神あり!であり、親戚との揉め事の後だったので非常に有難かった。
早朝、沖縄北部へ出発前にお世話になった ”赤嶺さん”一家と記念写真を撮る。
御主人からは又遊びに来て下さい。と何度も言って下さった。
右端の ”ルミ子”ちゃんは1つ年下で、しばらくは文通をしていた。
2021年の道路地図にも ”中井真”地区は存在していた。
 クーラーがあり、大きな冷蔵庫とフリーザには食料がたっぷり入っており、まるで高級別荘地に住んでいる感じを受けた。 遠い親戚とは言え、素晴らしい親戚があったもんだ。
  目の前にサンゴ礁の海岸があり、水中銃を借りて何度も潜りに行く。 一方、奥間ビーチではビキニのお姉さん達が体を焼いていたが、立ち入る勇気はなかった。
8月20日 32日目、米軍保養地に滞在する。
  突然の訪問に心置きなく泊めて下さった赤嶺さん一家とお別れして、那覇港に行き、
24日 沖永良部島 知名港行きの乗船券を買っておく。 これでパスポートの観光ビザでの30日間は超えてしまい、違法滞在となってしまう。 どんな罰則があるのかは知らぬが仏である。
  那覇港から沖縄北部の名護行きのバスに乗って、名護からバスを乗り換えて辺士名の米軍保養地に住む親戚の二女宅に向かう。
今では米軍保養地となっているが、当時はBOA(ボイス・オブ・アメリカ)と言う
北朝鮮に啓蒙の放送を流す、強烈な電波発信施設であった。
これは2021年現在の地図であり、当時、高速道は無く、右側通行だった。
名護市に入り、バスを乗り換えて辺士名の奥間ビーチに向かう。
  親戚の三女から名護行きのバスは左側に座りなさいとのアドバイスがあり、左側の席からは終始、沖縄本島の海岸線を見ることが出来て退屈することは無かった。 コザの町は英語表記の看板ばかりで、白人兵、黒人兵が町を闊歩しており、アメリカの町の様に思えた。
  名護で辺士名行きのバスに乗り換えると、満車で座ることが出来ずに辺士名まで立つことになった。 辺士名でバスを降りて、右も左も判らずに歩いていると大きな外車が来て俺のことを聞いて来た。 この人が親戚の次女で、旦那さんが米軍の無線技士をやられている方だった。
  小さな部屋が空いているから、そこに泊って行きなさいと米軍保養地に案内されるが、それは広い部屋であり、テレビ、冷蔵庫、冷凍庫の全てがビックサイズで驚いた。
  旦那さんが強烈な水中銃を持っていたので、早速、岩場の海岸へ潜りにいく。
出力1,000kwのB・O・Aのアンテナ群。
近くの集落でリード線を張っておくと、
電気が流れるとの話しがあった。 ホント?
娘さんの ”沙織ちゃん”は4才にして英語がべらべらだった。
普段は日本語で喋ってくれるが、怒ると英語になっていた。
当時の素潜りの技術ではのろまな魚しか突けなかった。
ゴシキエビを見付けた時は大興奮したが、残念なことに
脱皮した後の抜け殻だった。
住居から直ぐ近くに赤丸岬があり、行き成り深みにるのでダイビングが楽しめた。
その後、就職してからは名護市に2ヶ月と1ヶ月の長期出張があったが、
奥間ビーチのことはすっかりわすれていた。 この時に奥間ビーチに遊びに
行っていれば、今でも交流が続いていたかも知れない。
4才にしてバイリンガルだと、その後の人生が楽だったと思う。
2021年の現在は57才、どこでどうしているんだろう。会ってみたい!
  昨日から親戚一家は町まで買い出しに出掛けており、部屋は宅地ごと貸切りとなる。
相棒が在るものでホットドックを作ってくれたが、完全な失敗作であった。
  1日、サンゴ礁の海で素潜りを楽しんだが、相変わらずに大きな魚を突けなかった。
この頃はまだナイトダイビングをしようとは思わなかった。
敵はクラゲと日焼けであり、Tシャツを着ていてもクラゲに刺され、日焼けもした。
  家に戻ると隣りの外人が話し掛けて来た。 挨拶は出来るが、その後も話し掛けられて何を言っているのか判らない。 住人不在で怪しい連中と思われたのかも知れない。 夕方、家族は帰って来て、
夕食を作ってくれたが、クリスチャンのか、食事の前のお祈りが長くてまいってしまった。
8月21日 33日目、赤丸岬で素潜り三昧。
8月22日 34日目、辺士名岬の観光は中止する。
  沖縄本島の最北端にある ”辺士名岬”までバスで観光に行く予定であったが、
おっくうになり中止する。
  生きたサンゴを採り、庭に転がしておいたが、それが腐敗仕出し、強烈な臭いを発して来た。
お土産にするつもりで採って来たが、これでは臭くて持ち帰れない。
  今日は素潜りでタカラガイを沢山採種してこれはお土産にも持って帰る予定。
生きたタカラガイも腐ると強烈な臭いを発するが、ビニール袋で密閉していく。
  屋外の芝生の広場で映画をやっていたが、日本語字幕無しの英語版だったので、内容が皆目
解らずでで終わってしまった。
8月23日 35日目、那覇に戻り再び赤嶺さん宅にお世話になる。
  血縁関係の無い遠い親戚だと言うだけで、4日間もお世話になり、米軍保養地で貴重な体験をさせて頂いた。 4日間は素潜り三昧で、どこにも観光に行かなかったのは反省点である。
  バスに乗って那覇に向けて走っている途中に 「万座毛 800m」の看板が見えた。 沖縄に行ったなら絶対に観光しようと思っていたのだが、すっかり忘れていた。
  親戚の家では親父といざこざがあったので、厚かましく赤嶺さん宅に再びお世話るなることにした。 有難い事に再び歓待して頂き、沖縄料理を沢山頂き、宿泊も問題無しだった。
  国際通りに買い物に出掛けようとすると、ルミ子さんが一緒に行って良いかと聞いて来た。もちろん、無条件でOKであり、国際通りをデートする。 興南高校の2年生なのでおいらより1つ年下でバッチリではないか。 おとなしい娘で、先生に見付かったらどうしようとビビっていた。 ボーリングをして帰宅? する。
  夕食時には親戚の人まで集まって、おいら達の旅行談義を聞いてゲラゲラ笑っていた。
夜遅く、12時過ぎまで、談笑が続いた。 良い家族と巡り会えたものだ。
8月24日 36日目、沖永良部島行きの船に乗る。
 朝食を御馳走になり、家族全員が見送ってくれる中、軽トラで泊港まで送って貰う。
軽トラで送って頂いた方が税関関係者で、手荷物検査は素通り出来た。 出国手続きの為にターミナルビルに行くと、パスポートの滞在期間が過ぎている為に警備課に行ってくれと言われた。  恐れていたことが現実となってしまった。 罰則はあるのか? 罰金はあるのか?とビビッてしまう。 俺達は強制送還で2度と沖縄には入国出来ないと書いてあり、30日以下の拘留、
100$以下の罰金とも書いてあった。 書類を持って納税所に行くことになり、ここで罰金を取られるのかと思ったが、結局はパスポートに出国のハンコを押されただけでおとがめは無かった。  2等船室は相変わらずのに席の争奪合戦でババアと喧嘩になる。
甲板に出て、去り行く沖縄本島を眺めながら、短い夏休みの思いに更ける。
  沖永良部島の知名港が近付くと、日本に帰るだけなのに入国手続き書を書かされる。 手荷物も厳しくチェックされ、近くにいたおばさんは沖縄のみかんを持ち込もうとして禁止果物だと判り、食べてくれと大量に渡された。
  暗くなってから知名港に入港し、暗い中を大きく揺れるはしけで上陸する。
港の食堂に入って肉丼を食べるが、久し振りの日本円で支払いが変な感じであった。
宿泊されてくれそうな小学校、公民館を探すが、見るからず、丘の上にあった神社を今夜の宿をした。 港が一望出来る見晴らしの良い神社であった。
8月25日 37日目、観光鍾乳洞である ”昇竜洞”に行く。
 神社は吹きさらしなので、寒くて目が覚める。 無名の鍾乳洞探検をする前に観光鍾乳洞である、”昇竜洞”に行っておこうと思った。
  昨日の食堂に行って朝飯を食べて ”昇竜洞”行きのバスの時間を聞くと、日に2本のバスしかなく、1本目は出た後で、2本目は13時だと言う。
  待ち時間の間は知名港の海岸をウロウロして時間を潰す。
13時前にバス停に行くと、今日の乗客は我々2人だけだからバスは出ないと言う。
タクシーは高く付きそうなので歩いて行こうと思ったが、距離が判らない。 太陽が照り付ける中、長い登り坂が続き、TシャツもGパンも水を被った様にビチャビチャになる。
「永良部洞 150m」の看板を見付けた。 これが侵入禁止の鍾乳洞であったが、下見だけして明日の鍾乳洞探検とする。
 永良部洞からも上り坂が続き、飲み水を持って来ていないのでフラフラ状態で ”昇竜洞”に着く。 ここで水道水をがぶ飲みした。 3時になるとディーゼル発電機が動き出し、洞内に照明が付いた。 ガイドが付いて約1時間の洞内散策は感動ものであった。
”昇竜洞”内での感動は長くなるので割愛しておきます。
鍾乳洞探検がしたくて ”沖永良部”に寄り道する。
”昇竜洞”の位置はほぼ合っているが、”永良部洞”の位置は定かではない。
軽トラで港まで送って頂いたおじさんの姿を探している内に
2等船室の場所取り合戦に敗れてしまった。
当時、航空機運賃は高く、島間の交通は船便が主流であった。
なので出航する度に見送りの関係者が多く集まっていた。
8月26日 38日目、永良部洞をケービングする。
  今日も顔なじみになった港の食堂に行き、朝飯を食べる。
ケービングをすると言っても装備は何も無いので、遭難事故になる可能性は大であった。
一番残念だったのが、カメラにストロボが付いていないことであり、観光鍾乳洞とは一味違う純白の鍾乳洞の写真が撮れなかったことである。
昨夜、高台にある神社を無断で宿泊地とさせて頂いた。 明くる朝、神社から見た知名港の展望。
”昇竜洞”行きのバスを待つ間、知名港の海岸を散策した。
結局、”昇竜洞”行きのバスは乗客数不足で出発しなかった。 そんなのあり!
”沖永良部島”は島全体が隆起サンゴで出来ている感じであった。
道路脇にはモンキーバナナが生っていたが、
食べられる程には熟していなかった。
バスは出ないことになったので、島の最高地点付近まで歩いて行くことになった。
途中には米軍施設のレーダー基地が多く在り、道路以外は立入禁止となっていた。途中で 鉄条網で囲われた ”永良部洞”の入口を見付けることが出来たが、
ライトも持って来ていなかったので、探検は明日に廻すことにした。
初めて見る鍾乳洞内は感激する物が沢山あったが、ストロボ付きカメラでは
無かったので、鍾乳洞内での写真は何も撮れなかった。
炎天下の中、肉体労働を強いられ ”昇竜洞”に着く。
観光客が少ないのか時間制限でライトが点きガイドが案内してくれる仕組みになっていた。
”永良部洞”には立入禁止の看板は無かったが、立入禁止は明らかな厳重な鉄条網で覆われていた。 観光鍾乳洞の様にライトアップで茶色くコケが生えた鍾乳石で
は無く、純白の鍾乳石を見ることが出来た。 当然、洞内に道順がある訳では無く、
体が挟まりながら、道迷いしながらも、無事に入口に戻って来れた。
洞内での体験話しは長くなるので割愛しておきます。 良い経験が出来ました。
8月27日 39日目、沖永良部島から奄美大島に渡る。
”永良部洞”からの帰り道は炎天下でも下りばかりなので、凄く楽であった。
前方に見える赤い屋根が無断で2泊した神社である。
荷物を片付けて、今夜の船便で鹿児島に渡る。
  昨夜の12時に知名港を出航して、朝起きてもまだ船上の人だった。 本船は貨客船であり、
徳之島、奄美大島に寄港して荷物の積み下ろしがあるので、凄く停泊時間が長い。
奄美大島の名瀬港に着いた時には下船をして名瀬市街を観光し、その後、早い船に乗り換えるつもりだったのが、満席でキップは買えず、出航間際の元の船に乗船させて貰う。
8月28日 40日目、鹿児島から汽車に乗り、西宮に帰る。
  船上の人である。 佐田岬が見えて来て、やがて開聞岳も見えて来た。
鹿児島湾に入ると桜島も見えて来た。 2年前、自転車旅行で鹿児島に着いた時にはあと半分が残っていると思ったものであるが、今回は鹿児島に着いて、旅行は終わった感じとなってしまった。 後は汽車で西宮に帰るだけだ。
8月29日 41日目、西宮に無事に帰り着く。
  土産にしようと持って帰って来た、生きたサンゴとタカラガイは身が腐って強烈な臭いを発していた。 9時19分に帰宅を果たす。 真っ黒に日焼けして6kgも体重が落ちた我を見て、顔が変わってしまっている。 と家族からの第一声であった。
後は今回初めて持って行ったポジフィルムがちゃんと写っていることを祈るだけ。
2等船室は一杯だったので、甲板にいるのが一番楽チンであった。
暇潰しに拾った雑誌を読む相棒。
2年前の夏休みに九州1周サイクリングで見た鹿児島港の風景。