兵庫県佐用郡佐用町上月

2022年02月05日


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日本のお城』 予備知識が無かったが、行ってみると小振りな山城跡であった。
上月城(ウィキペディアから抜粋)
  延元元年(1336年)、赤松氏の一族・上月景盛(こうづき かげもり)によって築かれた。
嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱により、赤松満祐に加担した上月景則(かげのり)やその甥・上月景家(かげいえ)らが幕府軍の追討を受け、上月氏の嫡流は滅亡。以後、山名氏・赤松氏の攻防が繰り広げられ、弘治3年(1557年)、赤松氏から一門の赤松政元が置塩城から入城した。
その子・赤松政範は、佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領し、「西播磨殿」と呼ばれたが、天正5年(1577年)、織田信長の武将羽柴秀吉の攻撃を受け、落城した。 その後は宇喜多直家に属していた上月景貞(かげさだ)が入城するも同じく秀吉の攻撃と配下の江原親次の謀反によって落城し、尼子勝久ら尼子党が入った。 翌天正6年(1578年)、毛利輝元が率いる大軍に囲まれ、
救援の羽柴秀吉も三木城攻略のため撤退、孤立した尼子勝久は毛利氏に降服し自害した。
この時、山中幸盛(鹿介)も捕らえられ備後国鞆に移送途中、備中国高梁で誅殺された。
その後、上月城は廃城となった。 現在は土塁・石垣・空堀などの遺構が残る他、本丸に赤松氏の供養塔、麓には尼子氏の供養塔が残されている。
上月城跡
  西播磨には山城跡が沢山あるようで、上月城跡もその中のひとつであるが、規模は小さく、今日散策した限りでは石垣もまったく見られなかった。
  この後は最近地元民の力で知名度が上がって来た ”有年城跡”に行く。
上月城跡
  ”上月城跡”に対して何の思いもないが、”有年城跡”に来た序でに散策しようと思っただけ。 遺構と言えるほどの物は何も無かった。
こうづきじょうあと
Road Map :R2線を有年原からR373に入り、上月まで北進する。
Route Map:登山口のある上月歴史資料館に無料駐車場あり。

西播磨の山城跡
上月城の縄張り図。 方位に注意!
上月城跡(本丸跡)往復では物足りないので、西側の縄張りも歩く。
登山口に立っていたおちゃらけな散策地図。
その他に ”上月城と黒田官兵衛”と”上月城の沿革と攻防”の
解説板が立っていたが、長文なのでリンクだけ張っておきます。
登山口の目の前にある ”上月歴史資料館”の無料駐車場を利用する。
資料館への入館料は200円であったが、入館せずにトイレだけ利用さ
せて頂いた。 トイレが利用できるのは土日祭日のみだとか。
左側は登山道で右側は下山時に周回すると、ここに出て来た。
”資料館の目の前にあった登山口と遊歩道入口。
スカスカの雑木林であり、ハイキング道としては雰囲気が良かった。
登山道は丸太の階段で整備されていた。
手前右手が ”堀切”であり、奥のこんもりが
山頂の ”本丸跡”であろう。
”堀切”の表示があったが、落ち葉で殆どが埋まってしまっていた。
”本丸跡”に立っていた案内板の縄張り図。 登り途中に見られた ”曲輪”は小さなものだった。 方位に注意。
山頂の ”本丸跡”全景。 北側に3基の石碑が立っていた。
大きな石碑は ”赤松なんちゃら”と書かれていたが、読めなかった。
ここには ”上月城本丸跡”の木柱が立っていたらしいが、今は見当たらなかった。
”本丸跡”から西側に向けて下山する。 まだ縄張りは続いている。
細長い曲輪に出る。
曲輪の北の端に鳥瞰図が立っていた。 肉眼では ”利神城跡”はまったく見えなかった。
文字が小さかったので、一部書き直している。
”下山道”の道標が出て来ると、何故か強制的に
下山させられる感じがした。
2つ目の細長い曲輪を抜けて下山を続ける。
Uターンする様に谷側の道に入って行く。
尾根続きで登山道がある様だが、どこに行くか
判らないので鞍部から下山道に入る。
小川沿いに伸びる林道跡の様な遊歩道に出た。
ヒノキの植林帯の中をジグを切って下って行く。
登り時の登山口と合流して、36分の散策にて ”上月城跡”を終える。
水平道である遊歩道を少し歩くと資料館が見えて来た。
登り:本丸跡まで12分。
下り:本丸跡から24分。
周回:36分た