兵庫県三木市上の丸町

2021年11月04日


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日本のお城』 三木市街にひっそりとあった石垣の無い城跡であった。
三木城跡(三木市のHPから抜粋)
  現在、本丸には伝天守台と井戸が残り、二の丸は資料館等が建ち並んでいる。
新城は昭和30年頃まで土塁や本丸側に数段の帯曲輪が残っていたが、すでに宅地化
されている。 鷹尾山城は東西に細長い尾根上に遺構が展開していたが、西端のみが
残存し、周囲に土塁・空堀が巡っている。 宮ノ上要害は浄水場等の建設により遺構は消滅している。 発掘調査により、本丸・二の丸では、瓦葺き礎石建物が存在していたこと、内部が堀で区画されていたこと、本丸の伝天守台は堀が埋まったのちに造成されたことが明らかになっている。 二の丸では、貯蔵庫とみられる16個分の埋められた備前焼大甕群が検出された。 本丸・二の丸ともに瓦が数多く出土している。 中心時期は戦国時代後半とみられる。
鷹尾山城跡(三木市のHPから抜粋)
  鷹尾山城遺跡は二の丸の南東の丘陵上に位置しています。 雲龍寺背後の東西に細長い尾根上に築かれていましたが、現在は市役所、文化会館、体育館などが建ち、西端の主郭の土塁や堀などが残っています。 三木合戦の際、三木城主別所長治の弟・友之がこの城を守備していました。 しかし、天正8年(1580)1月11日、羽柴(後の豊臣)秀吉方の攻撃によって落城しました。 落城後は、秀吉がこの城に入り、三木城に対し降伏勧告を行いました。
三木城跡・鷹尾山城跡
  まず、三木市に城跡があるのを初めて知ったのが驚きとなる。
当時は広大な城郭であったのであろうが、現在は邪魔物扱いの様に宅地開発で分断されてしまい、当時の面影を少し残すだけになってしまっていた。 もっと多くの山城が三木市の周囲に点在するらしいが、それこそ、遺構としての面影は無くなってしまっているのだろう。
三木城跡・鷹尾山城跡
みきじょうあと
Road Map :県道20号線、神戸電鉄 三木上の丸駅の南西方向に城跡がある。
Route Map:無料駐車場のある ”みき歴史資料館”から適当に城跡内を散策する。

播磨三大城
たかおやまじょうあと
三木城跡から鷹尾山城跡までの道は住宅地を通るので道間違いをしてしまう。
初めてスマホのナビを使って鷹尾山城跡に辿り着けた。
観光パンフレットの地図を持って行き、紫色の線の代表コースを歩く予定であったが、
市街地歩きで方向が判らなくなり、鷹尾山城跡から引返した。
”みき歴史資料館”の横に ”三木城二の丸跡”の石柱が立っていた。
宅地開発の前には、この辺り一帯が ”二の丸跡”だったのだろう。
”みき歴史資料館”の駐車場に車を停める。
入館無料の ”みき歴史資料館”は振替休日で中には入れなかった。
”みき歴史資料館”の北側に ”神社”が見えたので行ってみる。紅葉が進んでいた。
金物の町 ”三木”に因んでか? ”金物神社”となっていた。
”三木の千殺し”の兵糧攻めは有名な話しらしい。
”金物神社”の裏側が ”本丸跡”となっており、見知らぬ武士の石像が立って
いた。 この人物が ”三木の千殺し”の兵糧攻めで自害した 別所長治らしい。
”三木城本丸跡”の石柱の後ろの小高い部分が本丸跡になる様だ。
周囲に石垣が見られないので城跡の感じがまったく無かった。
”本丸跡”に上って見ると極々狭い広場になっていた。
”本丸跡”からは外堀として使ったのか? ”美嚢川”が流れ、三木市街が一望出来た。
現在 ”本丸跡”の周囲は ”上の丸公園”として利用されている様だ。
”上の丸公園”の一郭に立っていた ”三木城跡”の歴史物語。
兵糧攻めに合い、土壁の藁(わら)をも食べた話が凄まじい。
同じく ”上の丸公園”の一郭に立っていた新しめの解説板。
”鷹尾山城跡”に向かう。
”勤労者体育センター”の駐車場の最奥に ”鷹尾山城跡”の解説板が立っていた。
解説板の地図に点線が描かれていたが、それがフェンス横の踏み跡らしい。
三木市役所のビル街をスマホのナビでウロウロしていると
”勤労者体育センター”に入る道の入口に道標があることを見付けた。
この地図の短く書かれていた点線で踏み跡に入って見る。
踏み跡を辿って林の中に入って見ると、石積みとかはまったく無く、普通の里山に見えた。
土塁跡に思える盛り上がりが少し続いていた。 あちこち歩いて見るが石垣は見られなかった。
現在は宅地開発、官庁ビルが建っているが、
当時は広大な城郭が広がっていたのだろう。
最初、気付かなかったが、2ヶ所に解説板が立っていた。