兵庫県姫路市夢前町宮置

2021年10月23日


日本のお城に戻る
日本のお城』 曲輪以外に何の遺構も残っていない山城であった。
置塩城跡(HYOGO!ナビのHPから)
  戦国期屈指の規模を誇る山城である置塩城は、播磨国守護であった赤松惣領家の城であった。赤松家は、黒田官兵衛が仕えた小寺家の主家筋に当たるが、次第に一族の内紛などで往時の勢力を失っていった。赤松則房のとき、羽柴秀吉が播磨入りしても播磨国内の領主の中には毛利方にくみする者が多かったが、則房は秀吉に従って四国平定戦などに従軍し、阿波住吉へ移封された。なお、1581年(天正9年)、秀吉に接収された置塩城は破壊され、その部材の一部は姫路城に移築されたという伝承がある。その一例が、姫路城の「とノ一門」だといわれている。
久し振りの山歩きを堪能出来た
  山城となれば自ずと山歩きをすることになるが、消滅と書かれた ”大手道”を下山路として選んでしまったので、久し振りの山歩きに加えて久し振りの難路歩きとなってしまった。
置塩城跡
  図書館で借りた ”日本名城百選”の単行本を見ていると、書写山の直ぐ北側に大きな山城があると出ていたので、急遽出掛ける。
おきしおじょうあと
Road Map :書写山の東側を通る県道67号線を北進して宮置地区から夢前川左岸の市道に入る。
Route Map:市道脇に登山口の表示があり、無料の広い駐車場が河川敷にある。

城山(標高349m)
周回時間:3時間13分 道路歩き10分を含む。
登り時間:1時間08分 曲輪巡りをして本丸跡まで。
下り時間:1時間24分 道路に出るまで。
本丸跡までは整備された登山道であったが、大手門跡からの下りは歩き難い道であった。
道路を挟んで登山口の反対側にあった車15台程の無料駐車場に車を停める。
河川敷側には広大な無料駐車場があった。
登山口に立っていた格式高い案内板。
簡単に開け閉めできる獣避けゲートを通る。
登山口にはレンタルストックが束になって置いてあった。
登山口に立っていた案内板。 調べてみたが城跡名の頭に着いている ”伝”の意味が判らない。
登山口が一丁で ”茶室跡”の十八丁まで丁目石が続いている様だ。
小さな沢があったが、ここんところの雨不足で沢水は流れていなかった。
樹林が濃くて展望が得られない道が続く。
よく整備された普通の登山道が続く。
ラミネートで保護された木板が時々出て来る。
中々の急斜面であるが、緩やかにジグが切られた
登山道なので疲れることはなかった。
九丁目で初めて南側の展望が開ける。
階段道が出て来るが、長くは続いていなかった。
急登部は終わり、水平道になって来た。
見るからに ”曲輪”に見えたが、何の表示もなかった。
十七丁目の水平道。
十八丁目で ”本丸跡”と ”南曲輪群”との分岐に着いたので、
まずは ”南曲輪群”に行ってみる。
分岐から少し下ると ”南曲輪群”に着く。
群と付いているので何段かの曲輪があるのだろう。
はやり ”伝”の文字が付いているのが気になる。
平地があるだけの ”南曲輪群”。 樹木が茂る前に伐採しておいて欲しかった。
分岐に戻り、”本丸”側の道に入る。 分岐点には簡易地図が立っていた。
分岐点にあった地図とは同等の地図であるが、これはネットから拾ってきたもの。 作者に感謝である。
”茶室跡”の曲輪を見る。 建屋が残っていないので、単なる曲輪にしか見えない。
更に ”本丸跡”側、東に向かって進んで行く。
この案内板を見て高台に上って見る。
”二の丸跡”の曲輪を見るが、特に変わった特徴がある訳でなく、どれを見ても一緒である。
この山城は標識が整備されているので助かるが、標識が無ければ曲輪の区別は付かない。
”二の丸”の曲輪はかなり広いのが判った。
”危険!立入禁止”の看板の奥には崩れ落ちた石垣があった。
かなり雑に積まれた石垣であった。
”本丸跡”への緩やかな登り道に入る。
”本丸跡”に行く前に ”本丸南曲輪群”に寄っておく。
更に ”本丸跡”への登り道を進む。
少し小振りな ”本丸南曲輪群”の一郭を見る。
登山口の標識には山頂まで40分と書かれていたが、寄り道しながらの歩きだったので
”本丸跡”に着くまで1時間8分掛かってしまった。
流石に ”本丸跡”だけのことはあり、広々としており、南と北に展望が開けていた。
”本丸跡”から得られた南側の展望。
”ヤマサ蒲鉾”の工場には春にシバザクラ、夏にハスの花で毎年、年に2回お世話になっている。
北側も展望が開けているが、樹木の背が高く、2〜3mの展望台が欲し所だ。
残念ながらどこの山を見ているのか見当が付かない。
”三の丸跡”にも立派な石碑と案内板が立っていた。
”本丸跡”から堀切を抜けて ”三の丸跡”に行ってみる。
広々した ”三の丸跡”も何がある訳でもなかった。
この言葉には、この後、身を持って感じることになった。
途中に ”大石垣”がある ”大手道”を下山路に選ぶ。
”大垣石”の手前に展望所があった。
肉眼では ”鞍掛島”、”男鹿島”も良く見えていた。
”大石垣”に着いてみてがっかりする。 大が付く程の石垣は無かった。
誰がこれを ”大石垣”と決めたのか?
”大石垣”は、この写真の範囲よりもう少し幅があるだけであった。
スケールもそうであるが、この雑な石の積み方にがっかりであった。
崩壊帯を抜けると立派な登山道となった。
”大石垣”から下山路とする ”大手道”を探すと、倒木帯となり崩壊していた。
登山道と判る道が続く。
道標も出て来て一安心出来た。
斜面に沿って、この程度の曲輪が次々と形成されたいた。
登山道に沿って ”西曲輪群”の小さな平地が次々に出て来る。
”大手門跡”にあったのは案内板と ”この先、危険だから引返せ!
”の注意書きだけであった。 なら、案内板を立てるなよ!
”大手門跡”には何かしろの遺構が在るものと思っていたが、
何の遺構も見られなかった。
”大手門跡”にあった ”引返せ!”の注意書きが身に染みることになる。 ここからの急斜面一杯に踏み跡があり、
どこをどう歩いて良いのか判らなくなる。 下って行けば良いのは判るが、全ての踏み跡が滑り易く、中々前に進まない。 この斜面下りに時間を要して、目的と違う所に下山してしまった。 この道は登りに使うべし。
難儀しながら下り終えて道路に出ることが出来たが、随分と北側に出てしまった様だ。
下り着いた所は、県道から見える様に立っていた看板の横だった。
下り立った所より100m程離れた、ここに下るべきだったと思う。
市道から見た ”城山”はこれが山頂を見ているのではなかった。
今回、車を停めて小さな駐車場とは別に夢前川の河川敷に河川公園の広大な無料駐車場がある。