兵庫県朝来市生野町小野

2021年02月11


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日本の鍾乳洞』 鍾乳洞では無いが、地下深く潜るので鉱山も鍾乳洞の分類に入れている。
生野銀山の歴史(生野銀山公式HPより抜粋)
  生野銀山は大同2年(807年)に銀が出たと伝えられる。
室町年間の天文11年(1542年)には但馬守護職・山名祐豊(すけとよ)が銀石を
掘り出し、開坑の起源といわれている。 永禄10年(1567年)には自然銀を多く含む
日本最大の鉱脈(慶寿ひ)が見つかる。
(銀山旧記には、“銀の出ること土砂のごとし”と記されている)。
生野銀山の入場料
  入場料900円は安いとは言い難いが、たっぷりと楽しめたので、こんなものなのかと思ってしまう。 これで ”不動滝”に充分な水がながれていれば、文句はないのだが・・・
  因みに ”明延鉱山跡”の見学はガイドさんが付いて1,200円であったが、これも安かったのか高かったのが判断は難しいところであるが、何事も経験、体験はしておいた方が良いと思う。
辻川山公園(妖怪公園)
  公園名を聞いて判る人は殆ど居ないと思うが、柳田國男氏生誕の地であり、沼からカッパが飛び出す妖怪公園と言えば判ると思う。 祭日なので沢山の家族が訪れていた。
生野銀山
  体力的に無理が出来る若い頃は有料の観光施設を巡るのは良しとしていなかった。ところが、歳を取って来て体力的に無理が利かなくなると、取り残してしまった
観光地巡りをしたくなり、その一旦として ”生野銀山”に行く事にした。
  実は ”生野銀山坑道外コース”には 2004年10月に ”金香瀬山”の登山口を探している内に迷い込んでしまって、露天掘り、旧坑道入口は観光している。
いくのぎんざん
史 跡
当日は”建国記念日”の休日であったが、コロナ禍の影響か
来場者はほとんどい居らず、第一駐車場に車を停めることが出来た。
鉱山立体模型:実はこれを一番見たかった。 壁一面に広がる坑道立体模型は圧巻であった。
地下の工場と分業体制(まるでアリの巣と同じだ。)
  真っ暗な地下で人手が頼りの作業です。照明はサザエの殻に油を入れ、一人一人の灯火としました。
鉱石を取り出す仕事は、順にいうと探鉱、測量し、稼行を予測しその上で採鉱、運搬となるですが、
この他大切な作業に鉱石の検査、労務監理、排水、換気作業、坑道維持の為の支柱造りなどあります。
 役職名でいえば間切改め、掘り大工、水替え、風廻し、山留大工、改め役と色々ある通り、
作業は多くの人々の分業で成り立っていたのです。
鉱山資料館(入館無料)
気温3℃、場内には残雪が少し残っていたが、ここまでの道路も
黒光りしていたので凍結の確認をしながら車を走らせてきた。
入場料は900円。 これが高いのか安いのかは、坑内を見てから決めたい。
坑道入口の左側の階段を上れば ”坑道外コース”巡りが出来る。 右側の橋の奥には坑道出口がある。
大きな滝があるのには驚いたが、水量が少ないのが残念であった。
”不動滝”の落差等は不明であるが、源流の異なる2つの滝が1つの滝壺に落ちていた。 季節がら、水量が少ないのが残念であったが、水量次第で迫力のある滝に
化けると思う。 ”不動滝”でまとめずに、それぞれの滝に滝名を付けて欲しい。
以下、生野銀山の公式HPから写真、地図等を拝借しています。
まずは観光坑道を散策してみる。
地図を持たなくても、坑内には充分な道標が整備
されていたので、迷子にはならないと思う。
最初に出て来た人形が、突然、動いたのでびっくりした。
”下財”とは、江戸時代の抗夫の総称らしい。
高い入坑料を取るだけはあって、良く整備された施設が頼もしい。
”樋引人足”とは 手動で地下深くから水をくみ上げる掛かりらしい。
背伸びも出来ない小さな穴を這いずり回ってると、早死にもするわな!
タヌキの棲み家の様に、人1人がやっと通れる穴を掘る採掘らしい。
彼も超スーパー地下アイドルの ”銀山ボーイズ”のメンバーなのだろうか?
坑内に入っているのは自分だけと思っていたが、先行者が居た。
”酒岳堂生野銀山 熟成庫”と書かれた貯蔵庫に着く。
坑内は年間を通じて13℃と書かれていたが、
寒くて温度計を確認すると5℃となっていた。 寒いはずだ。
”スラッシャー”と言う、削り取った鉱石や石をかき寄せる機械。
うっとうしいので、先行の2人を抜いてしまう。
閉山まで走っていた蓄電池機関車。
この深い立坑の解説板があった。
山歩きでも880mの標高差は相当なものなのに、それを掘り進んだとは!
耐久性に優れている ”ヒノキ”を使うとはさすがである。
落盤事故も数多くあったのだろうな。
削岩機を使っている図なのか。
説明板には ”石英(白い場所)の中に金・銀が含まれています。
黄色く光っているのが金です。”と書かれていたが、白い場所が
確認出来ず、金を見付けることが出来なかった。
説明板には ”左下の坑道は、江戸時代に銀鉱脈を求めて手掘りで進んだ跡であり、
右奥より先程見学さえた写真右の「五枚合掌支柱組」まで続いている。”書かれていた。
発破作業風景。
何やら発破関係のボタンがあったが、コロナ禍で使用禁止になっていた。
何度も出て来る ”狸堀”の穴。
”上向きさく孔用ジャックストーパー”と”下向きさく孔用ジャックストーパー”
が、あるらしいが、訳が判らないので、削岩機の良いのではないか?
1kmの深さを山に換算すれば標高1,000mではないか。 驚愕!
丸太の突っ張りは何の為なのか判らないが、
”への突っ張り”にしかなっていないだろう。
パッと見では、このクラックが1kmの深さまで続いているとは思えないが・・・
いわゆる ”バケット・ローダー”なのだろう。
坑道の高さは180cm以上は確保されており、おいらの身長170cmでは
頭をぶつけることは無かったが、身長190cm以上あれば要注意である。
”長孔さく岩機” 長距離の孔をあけ、鉱石の有無を確かめる。 と書かれていた。
江戸時代の落盤防止はヒノキで作られた木組みの ”五枚合掌支柱”であったが、近代になってからは鋼板製の ”馬蹄形鋼枠二枚合掌”に変更されているとか。
穴の奥は見えなかったが、 ”この奥に穴は、まだ計量技術が発達していない
昭和以前に掘られた旧抗の跡である。 この上にも堀り上りという上と下の
坑道を継ぐ縦穴の跡がある。” と説明板に書かれていた。
突如、左側が開け、3本の滝が流れ落ちる広間に出る。
坑内に滝があることはまったく知らなかったのでこれにはびっくりした。
この3本の滝は、各々の坑道からの湧き水で流れ落ちている独立した滝らしい。
人工的に掘られた滝口なのかは不明であるが、
独立した滝であれば、それぞれに滝名を付けて欲しい。
近代的な設備の紹介となるが、こんなのは面白くなかった。
斜坑は高い位置にまで伸びている様に見えたので覗いてみる。
斜坑は光が届かない上方まで伸びていた。
バッテリーで動く機関車。
説明板には ”坑内員の入退抗に使っていました。”書かれていた。
説明板がないので判らないが ”昇降機”(エレベータ)だろうか?
説明板には ”堀大工と女手子”と書かれていた。
”砕女”(かなめ) 鉱石を小さく砕いて銀鉛を含んだ鉱石をよりわける。
と書かれていた。
説明板には ”休息所”と書かれていたが、
その他の文字は読めず。
”負子”(おいこ) 掘り出された鉱石を背に暗い坑道を菜種油の光一つで進む。
と解説されていた。
”振矩師”(ふりがねし) 山の測量師と書かれていた。
左奥は ”手子”(てご) 十才〜十五才までの抗夫を ”手子”と呼んでいた。
中央は ”石砕石の作業”と書かれており、下の文は読めなかった。
何の作業をしているのか、詳細が判らず。 判り次第に掲載します。
代官所から派遣されている ”見廻り役人”
金脈と同じく、目を凝らして見たが、岩盤と鉱脈の区別が付かなかった。
こんな時にはガイドさんが欲しいと思った。
左、説明板 ”この坑道は火薬が発明された以後に掘られた坑道ですが、孔は手掘りで作られています。” 右、説明板には ”負子”(おいこ) 掘り出された鉱石を背に暗い坑道を菜種油の光一つで進む。 と書かれていた。
楽しかった時間はあっと言う間に過ぎて、出口となってしまった。
何周でも廻れるのであるのだが、そこまでの精神力は無かった。。
出口の上部にも江戸時代の施設があったが、詳しくは見ていない。
坑道外コースを巡ってみる。
なので ”坑道外コース”を散策するのは、今回で2回目となる。
”坑道外コース”には 2004年10月に ”金香瀬山”に登る為に登山口を探して
いる内に迷い込んでしまった経緯があり、通行止め林道を車で進入している。
坑道入口の左側の階段道を上り、”坑道外コース”へ入って行く。
残雪には踏み跡がなく、”坑道外コース”には誰も行っていない様だ。
林道を少し進めば ”露天掘跡”が点在している。
説明板がなければ、ただの大きなクラックに見えるが、
これが露天掘りであった ”大丸抗の採掘跡”らしい。
大きな落石でフェンスが壊されてしまっていた。
現在は土石でクラックが埋められてしまい、どれ位深かったのが不明である。
ここでは ”堀切”と表示さえていた。
ここも今では土砂で埋まってしまっているが、
200m掘り込まれたクラックはどんな状態だったのだろう。
地下200mまで掘り込まれた面影はまったく残っていない。
”小日向抗”は覗き込む気もしなかった。
”辰巳抗”を覗き込んでも、先で曲がっているので、
まったく奥が見えなかった。
残雪にはシカの足跡しか残っていなかった。 この先、100mで旧抗露天群は終わってしまう。
読んでみても、何が書いてあるのかさっぱり判らない。
風化して判り辛くなっているのか、これです!
の矢印を張っておいて欲しい。
亜鉛の鉱石の紹介は有り難いのであるが、さっぱり判らない。
これ以上、林道を進んでも何も無いらしいので、引き返す。
残雪で白くなった大きな筋も、露天掘りだった個所らしい。
前回は車でこの辺りまで来ており、路面状態が悪くなって来たので、車を停めた。
やってはいけない事であるが、林道を使えば
”生野銀山”の施設に入れる。
この沢水が ”不動滝”として流れ落ちている。
水の透明度が高く、綺麗であるが、重金属が含まれているかも知れない。
”坑道外コース”を終えて、番所に戻って来る。
階段道の下り途中から再度 ”不動滝”を見る。
”鉱山資料館”には各種の資料が展示されていたが、歴史的背景、
著名人には興味がなく、特徴ある鉱石の写真だけを撮り集めた。
生野銀山の施設外、第一駐車場にある ”生野鉱物館”は入場料100円であるが、
”鉱物資料館”と似た物しかないだろうと入らなかった。
同じく、エントランスに展示してあった、鉱石類。
”生野鉱物館”のエントランスに飾ってあった
巨大な ”メノウ原石”の写真だけを撮っておく。
ここでも稼働していたのかは不明であるが、”一円電車”が展示してあった。
”明延鉱山跡”では不定期で ”一円電車”が稼働されており、体験乗車が出来るようである。
階段を上り切ると、入口か出口か判らないが
”生野代官金香瀬番所”の史跡があった。
”坑道外コース”の林道に出ると、大きな岩峰が望めた。