ミクロネシア連邦、アメリカ合衆国自治嶺
回顧録
ミクロネシア周遊をHPにまとめようと思ったのが '20年であり、既に43年が経過した後であり、写真は残っているが、詳細の記録、記憶は残っていない。
沖縄徒歩旅行では毎日、日記を付けていたが、今回のミクロネシア周遊は記録が少な過ぎた。
グアム島→ポナペ島に戻る
トラック諸島〜サイパン島
ポナペ島→トラック島
小生の目的はポナペ島のサンゴ礁でスキンダイビングすることであったが、
今回の観光ツアーでは、トラック環礁、サイパン島への太平洋大戦時の激戦区の
戦争跡地を巡ることになった。 負け戦地を訪ねるのにはあまり興味はなかった。
観光パンフレットから地図を転用すると、フライト時間の記述があり、参考になった。
空港の滑走路が短いので、着陸時の急ブレーキで有名なトラック島に
戻って来る。 急ブレーキは2回目なので慣れてしまった。
手書きのトラック環礁には占領当時の日本名を書いてみた。
ラック島→グアム島→サイパン島
第二次世界大戦 (ウィキペディアから)
第二次世界大戦前には、日本軍の太平洋における要衝の1つとして日本軍司令部が設置され、横浜港から大日本航空の定期便が運行されるなど軍民共に行き来が活発になった。
大戦勃発後は日本海軍の太平洋戦線における重要拠点となった。 1943年(昭和18年)8月の時点での人口は日本人(外地出身者含む)29,348人、チャモロ人、カナカ人3,926人、外国人11人となっていた。 しかし、大戦末期の1944年(昭和19年)6月のアメリカ軍をはじめとする連合国軍の上陸の際には、住民を巻き込んだ激しい戦闘によって多数の犠牲者を出した。
現在でもバンザイクリフ やスーサイドクリフなど島のあちこちに戦争の名残がある。
ミクロネシア周遊その2
小さいボートで旧日本軍の施設があった島に渡る。
旧施設を見に行く時間があるのなら、海に潜りたい心境だった。
相変わらず、現地の子供が寄って来るが、悪さは一切しなかった。
詳細は何も覚えていないが、旧軍部の本部施設なのだろうか?
戦後っ子に取っては、単なる廃墟にしか見えなかった。
指を指して何かを説明している佐野さん。
戦時中はポナペ島で戦ったと言う元日本兵の佐野さんは、
トラック島にも思い出があるらしく、雄弁に色々語ってくれた。
ホテルがある島に戻り、自由時間となる。
ホテル前に広がる海岸で海水浴を楽しむ。 おいらはリーフまで泳ぎたかったが自重した。
ホテルのバルコニーから見たヤシ林と海岸。
トラック島で宿泊したホテルは部屋も外観の満足出来るものだった。
ホテル裏の芝生に集まって来た子供と遊ぶ。
プロカメラマンの石田さんが撮ってくれたトラック諸島の夕焼け。
又々、子供が集まって来る。 言葉が通じなくても楽しく遊べた。
夕焼けが綺麗なのでプロでなくても良い写真は撮れた。
翌朝、レンタルカヌーに乗ったのだが、社長がレンタル料を出してくれたのかも知れない。
ホテル前の海岸にて。
今や大戦跡が観光名勝地となっているサイパン島。
観光用に数々の残骸が残されており、自由に触れることが出来た。
戦後っ子は無邪気なものである。
崖の中段には速射砲が置かれた自然の防空壕があった。
海中に横たわる ”ゼロ戦?”の残骸。
グラスボートに乗ったのかも知れないが、覚えていない。
沖縄での激戦区であった ”摩文仁の丘”を見ているので ”バンザイクリフ”は感無量であった。
こんな綺麗な海岸で飛び降り自決したとは考え難い。
奇しくも ”バンザイクリフ”は沖縄の ”残波岬”にそっくりであった。