沖縄県名護市屋我地
『日本の海岸、湖』 只でジェットスキーに乗れて、給料も出張旅費も貰える。 こんな美味しい仕事は他にないだろう。
楽しい仕事に感謝する
沖縄に行ってジェットスキーに乗れる。 これを聞いて出張旅費を貰うどころか、費用を払ってでも参加したいと思った。 1969年時の富士山の裾野を走り廻るだけのスノーモービルテストも費用負担しても良いと思った程に楽しい仕事だった。
JS440の耐久テストは2ヶ月間であったが、翌年にはJS650の耐久テストで1ヶ月の沖縄出張を命じられた。 沖縄出張が慣れっこになってしまい写真が残っていない。
沖縄・屋我地島 JSテスト
ジェットスキー開発黎明期
川崎重工業のエンジン設計に配属が決まり、モトクロスエンジン設計を希望したが、希望は叶わずに小型農発エンジン設計部の配属と決まった。
しかし、神は捨てていないもので、仕事内容はアメリカ、カナダで爆発的に人気が出始めたスノーモービル用のエンジン設計だった。 後にジェットスキーなる未知の乗り物を開発することになり、
それのベースエンジンとしてスノーモービル用の強制空冷2st2気筒400ccを
ジェットスキー用に水冷化して転用することであった。
後に商品化する時に商品名とした付けられたジェットスキーなる乗り物は、参考とする物がなく、様々な困難にぶち当たり、それを独自技術で改善するしかなかった。
Road Map :那覇港から車で3時間程の屋我地島、屋我地ビーチの一郭を借り受ける。
Route Map:宿泊地は名護市内の旅館で屋我地ビーチまで車通勤する。
名護市街から1時間程の距離に屋我地島があり、その付け根に
屋我地ビーチがある。 当時、古宇利大橋はまだ無かった。
おきなわ・やがちじま ジェットスキーテスト
沖縄と言えど2月の川水が入る内海は水温が低いが、
黒潮の流れる外海はウエットスーツだけで充分泳ぐことが出来た。
那覇港からテスト基地として借用する屋我地ビーチに移動する。
何が不満だったか! 経費節減の為にジェットスキーを積んだトラックと共に
貨客船で1泊2日の船旅を強いられたことである。 他には不満の無い出張だった。
屋我地ビーチの一郭を借り受けてテスト基地とする。
沖縄地方の冬は雨季であり、12月〜2月までは天気が悪い。
左、今回の責任者と右、開発エースライダー。
屋我地ビーチの東側は外洋であるが、西側は波の静かな羽地内海となる。
最高速度、加速力等の低地テストは羽地内海側で行う。
JSはまだ販売されておらず、世の中の人はJSの存在をまだ知らない。
羽地内海を航行していると、米軍の大きなヘリが接近して来て、追っかけ
回されたことがあった。 未確認物体の写真でも撮っていたのだろう。
旅館で会った旅行者は羽地内海で潜水艦を見たと言っていた。
遠目では立ち乗りJSが潜望鏡に見えたのだろう。
ライバル艇も無いのに、そんなに頑張らなくても・・・
インペラー選定の為に加速度測定、最高速測定を繰り返す。
JSに初めて乗ると、ぐらぐらで立って乗れないのに驚く。
JS初心者に耐久ライダーをさすとは無謀に思えるが、本人は感激している。
世の中、メンバーが多ければ多い程に仕事をしない者が増えてくる。
昼休憩の遊びとしてジェットスキーで水上スキーを牽引して遊ぶ。
写真とは関係なく、会社には内緒であったが、ジェットスキーで砂浜ギリギリまで全開走航し、砂浜に乗り上げる寸前でエンジンを切ると惰性で5m程、砂浜に乗り上げることが出来た。
個人のジェットスキーでは絶対にしない遊びの発見だった。
ゲレンデスキーをしていたので、2本水上スキーなら問題なく乗れた。
船体の強度、耐久性を確認する通称サーフテスト(ジャンプ耐久)を行うが、船体の耐久性より、
ライダーの耐久性の方が問題であり、1日目に大きなケガして会社に帰った者も居た。
波浪警報時の波はこんなもんでは無かったが、伴走艇が出せないので写真が撮れなかった。
壊して直すのが仕事と言う日本メーカーの誠実さを感じられた。
一番若く、一番経験のある彼は楽々とジャンプをこなしていた。
初めて乗ったのが、波浪警報の出ている外洋だったので、当然、立って乗る
ことが出来ず、初日で体はケガだらけになってしまった。
会社には大丈夫ですと連絡して最後まで残ることが出来た。
写真は無いが、サーフィンをする様なウェーブに突っ込むと、
エンジンが停止することなく、波の中を通り抜けられることを発見した。
屋我地ビーチでの仕事が終わり、帰社する日に記念撮影をする。
沖縄美人のつや子さんが色っぽい。
ビーチのスタッフである具志堅さんとは次第に仲良くなり、シャコガイを呑み屋に持って行くと女性にモテること、イモガイの食べ方、ホラガイ、ヤコウガイの身の抜き方とか色々教えて貰った。
スキューバに関してはおいらのスポンサーとなってくれた。
来た時と同じく那覇港からトラックと共に神戸に向かう。
船酔いし易いおいらに取って、この船旅が一番苦しい仕事だった。
「水平線は水平だ!」と言っています。
帰社前に沖縄北部の ”辺戸岬”へ観光ドライブをする。
沖縄出張2ヶ月の思い出
JSに乗ったこともないのに、耐久ライダーのメンバーに選んでくれたのは、自分で志願したこともあるが、当時、モトクロスを趣味としていたが選考理由だと思う。
耐久テストなので部品が壊れていき、対策部品を空輸して貰うのであるが、おいらと同じく今回初めてJSに乗り、耐久メンバーになった仲間は大きなケガをして、替わりの人材を空輸して貰う人海戦術も取られた。
ケガでのメンバー変更は2人となり、おいらも初めてJS耐久走航で体はケガだらけになったが、会社からの帰って来いの指示に最後まで頑張った。
耐久走航要件
ビーチから羽地内海を通り、古宇利島の外周を廻り、外洋で戻って来る1時間コースを1日で1人、2回走航する。 冬の沖縄は北風が強く、度々、波浪警報が出るが、その時が耐久走航の絶好のチャンスとなり、2mを越える大波の中も走航した。 波浪警報が出ると伴走艇の船外機付き和船を出すことが出来ず、トラブルがあればJSでJSを牽引して戻って来ることもあった。
船体の耐久性を確認する為に大波でのジャンプテストも繰り返し行った。
具志堅さんとの思いで話し
数年後、沖縄に台風が上陸した時にボートを係留中に、ボートが強風に煽られて頭に当たり亡くなられたの連絡が入って来た。 具志堅さんともう一度会いたいと思っていたので、残念な訃報ではあった。
羽地内海でのキス釣り
休日にはボートを出してくれてキス釣りに連れて行ってくれた。
釣れたキスを3枚に下ろしてくれて、ワサビ醤油で御馳走してくれたのは美味かった。
スキューバの無料レンタル契約
ある日、具志堅さんが2本タンクのスキューバーセットを買って来たが、その後、鼓膜に穴が開いており、潜っては行けないことが判ったらしい。
スキューバセットを俺に貸すから獲物を分け合おうとの相談があり、願ったり叶ったりと快く引き受けた。 具志堅さんはモーターボートを所有しており、夜な夜なボートを出してくれて、獲ったと言うより、拾ったの感じであるが、ホラガイ、スイジガイ、20kgのシャコガイはビーチの飾り物に寄付をしたので、今でもビーチの玄関にあるかも知れない。
伝統のイルカ漁に参加(実際はゴンドウクジラ)
各集落の火の見櫓のサイレンが一斉に鳴り出したのでビックリして外洋を見ると、付近の漁船、モーターボートが一斉に出漁していた。 以下、長くなるので割愛します。
(昭和50年 22歳)