石垣島、西表島

1967年07月20日〜08月29日 41日間


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徒歩旅行』 ついに目的地である日本最後の秘境 ”西表島”に上陸出来たが、波乱万丈となった。
那覇で1週間後の次の船便待ちをする
  那覇に到着して1週間後に石垣島行きの船便に乗ることが出来た。 これまた貨客船であり、船速が遅く、各島で荷物の揚げ降ろしがあり、石垣港までは18時間も掛かった。
西表島に渡る
  石垣島では神社で1泊して、あくる日の連絡船で西表島に渡る。 連絡船には大量の荷物と共に大きな牛も乗っていたのでびっくりであった。
  来たかった西表島では、サンゴ礁の海に潜る以外に特に目的はなく、公民館、小学校と無料で泊めてくれる施設を渡り歩いた。 集落ごとに共同売店なるものがあったが、売っている物
何も無く、予約制で次の船便で届くと言うシステムになったいた。無料で貰えるパイナップルと簡単な自炊で飢えをしのいだ。
石表島横断を強いられる
  西表島の南部から北部に行く道路が無いことを知らされ、ガビーン!
西表島の北部に行くにはを横断する道があるらしいが、毎年、道に迷って遭難する内地の人がいるらしい。 古老は1日で渡れるよ! と言うが20kgの荷物を担ぐ我々には途中でビバーグする1日半も掛かった。
アクシデント発生
  古見の海岸で遊んでいる時に貝がらで足を切ったのであるが、その小さなキズが横断中の
高温多湿で化膿して来て、干立集落に着く頃には歩けないほどに腫れてしまった。
横断中は痛くても歩けたので、それは不幸中の幸いではあった。
沖縄徒歩旅行(その2)
Sea Map  :那覇港から石垣港までは18時間の船旅であった。
Route Map:。

石垣島、西表島、沖永良部島
(高校3年生 18歳)
船便の便数が少なく、石垣島到着まで10日間を要した。
  神戸港から那覇港までの船便で3日間を要し、石垣港行きの便待ちに7日間を要し、那覇港から
18時間で着くことが出来た。 でも、まだ石垣島が目的地では無い。
8月02日 14日目、西表島に渡る。
  神戸港を出発して2週間掛けてやっと目的地の西表島に渡れる日が来た。
沖縄41日間徒歩旅行 ”その3”に進む。
8月01日 13日目、やっと石垣島へ上陸出来た。
  朝の7時に目が覚めて、甲板に出てみると、沢山のトビウオが船に驚いて飛んでいた。
50m近くも滑空するトビウオにはびっくり、感動ものだった。
再度、寝て次に起きると船内がざわざわしていたので、聞いてみると船は石垣港に接岸を済ませていたのだった。 泊港から18時間で石垣港に着いたことになる。
 石垣港に到着して早速、西表島の ”大原港”行きのキップを買いに行くが、今日発の船のキップは既に売り切れており、明日のキップを買うことになった。 つまり、石垣港で1泊する必要があるので、港に近い神社に無断で宿泊することにした。 昼飯は港の食堂で食って、
神社の前の海岸でひと泳ぎする。 生まれて初めて生きたサンゴ礁、コバルトスズメ、チョウチョウウオ等の熱帯魚を見ることが出来て大感激。 2回目の泳ぎに水中銃を持って潜っていると、黒と黄の縞模様のウミヘビが悠々と目の前を通り過ぎて行った。 猛毒を持っていると聞いていたので、心臓はバクバクもんであった。 逃げる様にウミヘビから遠ざかった。
  夕食はごはんを炊いて、赤貝の缶詰で自炊とした。
旅行者が珍しいのか、ガキが集まって来て追っ払うのに苦労した。
昨日から我々に興味を持ち、集まって来る小学生。 今日も朝早くから
我々の見学に集まっていた。 悪さをしない良い子ばかりだった。
無断で宿泊させて頂いた神社から海岸の堰堤を見る。
豪華客船は荷物が優遇され、乗客は荷物の間に座ることになる。
風も波も無い中、12時に石垣港を出港する。
西表島 ”大原港”行きの豪華客船は12時出航で11時半の乗船開始となった。牛も乗っている豪華客船の運賃は片道30¢(約110円)でびっくりする程に安かった。 この運賃は島民の足としての値段なんだろう。
その後に一大観光地になる ”竹富島”を迂回して行く。
石垣島〜竹富島の間は底が見える程に水深が浅かった。
豪華客船にはどこかの大学の ”探検部”も乗船していた。
金を持っている風のこいつらとは仲良く出来なかった。
途中に ”黒島”の横を通って行く。 薄曇りでもコバルトブルーの海は見事であった。
西表島の大原港に着くと、上陸の感動を味わう暇も無く、
仲間川クルージングの船頭が客引きに来た。
西表島の大原港に着くや否や、年老いた船頭がやって来て、仲間川の上流へ
クルージングしないか? と声を掛けて来た。 西表島のジャングルが見れる
とのことで、1$(365円)を払って乗船する。
仲間川は上流に行くに従い川幅が狭まって来るが、感動するものは何も無かった。
船頭は大きなシダ植物である ”ヒカゲヘゴ”等の亜熱帯植物を
説明してくれるが、初めて聞く植物名が頭に入る訳が無い。
上流部の川幅が狭ままった所で上陸させてくれたが、何がある訳でも無かった。
ここから西表島の横断道路が始まる様であるが、俺達が西表島を横断する羽目に
なるとは夢にも思わなかった。
大原の集落から豊原の集落まで歩くと公民館があったので区長さんに
2日間の宿泊をお願いしに行くとOKを出してくれた。
  豊原集落での主要産業はパイナップルの生産の様であり、至る所がパイナップル畑となっていた。
パイナップルを収穫している所に行き、パイナップをを別けて欲しいと頼むは、大体の農家から1ヶ
位は頂くことが出来た。 1人1ヶのパイナップルを食べると腹一杯となり、1食分が助かった。
8月03日 15日目、豊原の公民館を借りて別荘にする。
ゴリラもパイナップルが大好物の様だ!
パイナップル畑は山沿いに沢山あり、お願いする農家を
代えて何個も頂くことが出来た。
  豊原の集落には、お店と呼ばれるものは一切無く、集落が経営管理している ”共同売店”
なるものが1件あるだけであった。 缶詰、お酒類の在庫はあるが、野菜、肉類は予約注文と
なり、次の船が来ないと手に入らなかった。
我が別荘地にも地元の小学生が毎日遊びに来ていた。
公民館の目の前が海岸で長いリーフが伸びていた。
パイナップル以外の食べ物は、海で調達する訳であるが、素潜り漁はまだ
初心者で、ナイトダイビングでイセエビを獲る技はまだ持っていなかった。
8月04日 16日目、豊原のサンゴ礁に潜る。
  集落の売店に食べ物が売っていない以上、自分で食べ物を捕獲する必要があり、当時、まだ未熟であった素潜りで獲物を追う。 サンゴ礁の海は50m先まで見えているのではの透明度であり、ナポレオンフィッシュと見間違う大きなブダイも居たが、透明度の高い海水では相手からもこちらが丸見えで、中々、突くことは出来なかった。 地元のおばさんに砂浜にハマグリが居るから採りなさい。 と教えて貰ったが、それは内地で言うハマグリでは無く、極々小さなな白い貝だった。 これは澄まし汁にして食べた。
  豊原集落はサンゴ礁の海も近くて居心地が良かったのであるが、2日間の約束だったので
立ち退いて、次の集落まで徒歩旅行をすることにした。
8月05日 17日目、豊原集落から古見集落へ移動する。
真夏の太陽が照り付ける炎天下の中、20kgのキスリングを担いで歩き
たくなかったが、徒歩旅行に来たのだから、これだけは避けようがなかった。
炎天下に体力が持たず、ジープに手を上げると載せて貰うことが出来たが、
「お前ら徒歩旅行に来たのであれば歩くのが基本だろう!」と説教された。
港のある大原集落まで戻ると、暇ながガキに囲まれる。
ジープに古見の集落まで載せて頂き、古見小学校の教室を貸して貰える様に担当の先生に嘆願に行く。教室は貸していただけることになったが、他の教室には大学の探検部が既に借りていた。
8月06日 18日目、古見小学校でダラダラと過ごす。
  地元の古老に、この先の道路を聞いてみると、西表島の北側を歩く外周道路は無い! と言われた。 ”ガーン!” 西表島の北半分を歩くつもりだったのにどうすれば良いのだ。
古老曰く、ジャングルを歩く西表島横断道を歩けば1日で反対側の ”干立”に着く。と教えてくれた。 最近でも道間違いして、2〜3日、ジャングルをさ迷った人も居るらしい。
”シオマネキ”は九州の海でも見かけたが、驚いたのは始めて見る
”グンタイガニ”で、最初に見た時には地面が動いていると思ってしまった。
暇潰しに前良川の河口にあった ”ヒルギ林”を観光に行く。
この泥地の貝がらで足を少し切ったのであるが、
多分、これが後々の災いの元になった様だ。
8月07日 19日目、古見小学校3泊目。
古見集落は ”後良川”と ”前良川”に挟まれており、海岸はヒルギ林が広がる泥地ばかりで、
潰豊原集落の様にサンゴ礁の海岸がある訳ではないので、海に潜って遊ぶことが出来なかった。
観光する所も無く、退屈な3日間を過ごした。 意を決して、明日には西表島横断道に入ること
にする。 しかし、横断するには食料が必要であるが、古見の共同売店には何も売っていなくて、
大富の集落まで買いものに行く必要があった。 ガキに自転車を借りて大富集落まで走るが、途中
には ”ひよどり坂”と呼ばれている峠があり、自転車での往復は一仕事であった。
大富集落で買えたのは菓子パン4ヶだけ、他には何も売っていなかった。 これで横断出来るのか?
古見集落滞在も3日目となると、行く所が無く、することも無くなる。
暗くなってから運動場に寝転んで夜空を仰ぐと、満天のミルキーウェイを
見ることが出来た。 星明かりで本が読める位の明るさだった。
旅行日記を付け始めたのは2年前の九州1周サイクリングから。
今回も暇さえあれば日記を付けていた。
8月08日 20日目、西表島横断に出発する。
旅当時、古見集落から西表島横断道が始まっていたが、現在は、古見集落からの道は廃道になっており、大富集落からの道だけになっている様だ。 しかも、ガイドを雇う、ましくは警察への届け出が義務付けられている様だ。
赤線の軌跡は地図に載っていたものであり、実際に歩いた軌跡とはそう違っていないと思う。
道中に道標は一切無く、道が無くなったり、沼になっている所が多々あった。
日暮れて来て時間切れで、途中でビバーグしたが、その場所もどこなのか判明していない。
樹木で風が遮られ、高温多湿で汗が止まらない。
荷物を片付けて6時40分に古見集落を出発して、横断道に入る。
最初、踏み跡はしっかりしていたが、うっそうとしたジャングルで、
進むほどに自位置がが判らなくなる。
湿地帯を通り抜けた後、相棒の足に4〜5匹の大きな ”ヒル”が張り付いて
おり、ヒルは吸った血で真っ赤に膨れていた。 やってはいけない事らしいが、
ヒルを無理やり剥がした。 おいらの足にも2匹のヒルが張り付いていた。
何度か道間違いがあり、その都度、2人でしっかりし踏み跡を探すことになる。
東京から来られた植物採集の先生と生徒の2連れと同じ方向に進むことになった。途中に壊れ掛けの山小屋があり、東京から2人はそこに泊るとのことだった。
綺麗な沢があったので昼飯休憩をするが、食い物は昨日買った菓子パンが1人、
2個しかない。 横断出来なくて途中でビバーグとなると、食べ物が無いのだ。
沢には手づかみ出来る程に ”テナガエビ”が沢山居た。
途中で日暮れてビバーグすることになる。
  蒸し暑さでバテて来て、休憩が多くなり、1日での横断は無理っぽくなって来た。
海岸で小さな傷を負った左足が、熱を持って腫れて来た。 まだ何とか歩ける範囲なので歩くしか手立てが無い。  日暮れて来たので、大きな岩を見付けて、岩の上でビバーグすることにし
た。 岩の上を選んだのは、毒虫、ハブを避ける為である。 ビバーグの位置はまったく判らず、
干立の集落まで遠いのか近いのか見当が付かなかった。
8月09日 21日目、横断道から干立の集落に辿り着く。
  夕食抜き、朝食抜きで大岩のビバーグ地点から横断道の続きを歩く。
途中で ”カンピラの滝”を通っているはずであるが、記憶も記録も写真も残っていなかった。  現在は廃村になっている 稲葉集落に到達して、おばあさんに井戸水を飲ませて欲しいと頼むと、朝飯を食べさせて頂いた。 美味い朝食では無かったがお腹は膨れた。
  おばあさんは、横断道を歩く人を何度も見ており、1日での横断は無理で、山小屋で1泊するのが、当たり前とアドバイスして頂いた。
古見の海岸で貝がらでケガしたキズが、横断中に化膿が進み腫れ上
がった様である。 切開手術をしないと膿は出せない様である。
結局、診療所からは治療費の請求は無く、結果として踏み倒しとなってしまった。 治せなかったので無料でも正解か。 通り掛りの
親父に ”破傷風”だったら今頃死んでいる。と言われた。
食わず食わずでで1日半歩き続けてやっと干立集落に着いた。
田んぼの脇に林立するヤシの木で、干立の集落に着いたことを感じた。
  相棒には干立小学校の教室を借りる手はずを取って貰い、おいらは足の治療をして貰える診療所を探しに行くと集落内に診療所があったが、昼寝をしていた先生には治療能力が無いのか? 腫れあがった左足の親指をギュウギュウ押して膿を出そうとし始めたが、それの痛みは悲鳴を発する程であった。 いっそうのこと、手術で切り開いて膿を出してくれ! と頼むが、傷口にタコが出来ているから手術は出来ないと言う。
  結局、ヨードチンキを塗って、様子を見てくれで、治療は終わった? 診療所に松葉杖を借りて、干立小学校の相棒と合流する。
  小学校の水道で行水をしている内に相棒が手料理で夕食を作ってくれた。 感謝!
8月10日 22日目、干立集落に滞在を続ける。
治療を受けた左足の親指は更に腫れ上り歩けなくなってしまった。 トイレに行くにも相棒に
おんぶして貰った。 更に稲葉集落のおばあさんに御馳走して貰った小魚の影響と思われる蕁麻疹が出て、顔の形が変わってしまった。(写真は無し) 三隣亡である。
1日中、寝ていても退屈なので、松葉杖で祖納の海岸まで散歩する。
相棒はこの海で泳ぎ始めた。
  診療所に行くが、相変わらずに消毒液を塗って湿布をするだけ。 ここでは手術が出来ないから石垣島の大きな病院に行ってくれと言い出した。 西表島にはまだ滞在したいが、石垣島に
戻るしか無い様だ。  ハブに噛まれた女の子が飛び込んで来て、診療所の先生は見事にテキパキと治療を始めた。 ヤブ医者と思っていた先生はハブの噛まれた治療は得意なんだ。
  相棒に色々迷惑を掛けながら、今日も何もせずに1日が終わってしまった。
  集落の診療所に見放されて、石垣島へ戻ることにした。
西表島を充分に観光出来ずに西表島を去るのは相棒に申し訳ないが、相棒も長期の苦労で精神的に弱っている感じで、早く西表島を去った方が良さそうだ。
8月11日 23日目、石垣島に戻り、県立八重山病院に行く。
西表島には素潜り目的で来たのであるが、結局は豊原のサンゴ礁で潜った
だけで、充分な素潜りは出来なかった。
砂浜が続く祖納の海岸でも、東の端には素潜りポイントがあった。
足のケガさえなければ、バリバリ潜ったのであるが・・・
滞在9日間で大学探検部のメッカである西表島を去ることになってしまった。
石垣港への出発は午後からであるが、何時になるのかは判らないと言う。
荷物の積み込みに時間が取られ、結局は午後4時の祖納港出航となった。
石垣島に戻り、県立八重山病院に行く。
  連絡船は白浜港経由で、白浜港では沢山の人が乗り込んで来た。
なんやかんやで石垣港に着いたのは午後7時30分で日暮れて来た。 大きな病院はなら閉まっている時間だろうと思い付近に居た女の子に八重山病院のことを聞くと、八重山病院は夜の
10時まで診察してくれるとの嬉しい情報を得た。 港で拾った竹で松葉杖を作って、市街にタクシーを探しに行く。 八重山病院までのタクシー代は直前でメーターが上り31¢だった。
  八重山病院で診察をお願いすると、待ち時間無しで早速手術をしてくれたが、傷口を切開してぐりぐりと膿を絞り出すので、痛くて悲鳴が出そうになったので、自分の腕を噛んで我慢した。 手術費は幾ら掛るのかを質問すると、30$は掛かるとの回答だった。日本円で約1万1千円は大出費だ。 幾ら持っているの? の質問に対しては50$ですと答えると、じゃあ!残り物の薬で済ませておこうか!。 と冗談か何か判らないことを言っていた。
今日の宿泊は?
  手術が済んだのは夜遅くなってからで、泊めてくれる公民館、小学校を探す時間では無くなってしまった。 先生に病院の片隅に泊めてくれる様にお願いすると、横に立っている保健所が泊めてくれるのではとアドバイスをしてくれた。 保健所に宿泊をお願いしに行くと管理人が出て来て、ここは官庁だから泊める訳には行かないと断って来た。 ケガの話しをして泣き落としで泊めてくれることにはなった。
手術して頂いた先生にお寿司を御馳走になる。
  お前ら臭いから風呂に入れと怒られながらも、石垣の市街に出てお寿司を御馳走して貰えることになった。 久し振りの食べる御馳走に胃がびっくりしていた。 当然、先生の自慢話を長々と聞かさせることになるが、御馳走頂いた先生には大感謝です。