1983年〜

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エンジン開発履歴』 片手間仕事で大ヒットし、事業部長表彰を頂く。 しかし、その後H社のリコールで生産中止に!
アメリカのR&Dからエンジン開発の依頼を受ける。
  詳しい時期は覚えていないが、アメリカのR&Dに出向していた??さん(名前を思い出さない)から電話が入り、当時、大ブームとなっていたスタジアムモトクロスと併催されていた三輪バギー用エンジンの開発依頼が入って来た。 スタジアム三輪バギーレースはホンダの独占で、四輪バギーレースはホンダにパテントを抑えられたスズキが活躍していた。
  KXT250のエンジンは当時、KX250の水冷エンジンを開発していた小生が担当者に決まるが、部下は付かずに一人だけの設計、開発となる。 アメリカの開発担当者はエンジンスペースの取合いで国際電話、ファックスで何度も喧嘩した。
  スタジアム三輪バギーレースはH車の全戦全勝でH車は油断していたと思う。
そこにカワサキがモトクロスエンジンをベースとしたKTX250で参戦すると、カワサキの全戦全勝となり、慌ててH社も本格的にレース車を開発する様になったが、市販三輪バギー車が裁判沙汰となり、H社が販売を中止して、カワサキも他社メーカーも全て三輪バギーの販売中止となった。
  H車以外は販売台数の関係から裁判沙汰に羽成らなかった。
Y社からの不合理なパテント出願。
 
確か、三輪バギーに出遅れていたY社からのパテントと記憶しているが、強烈なパテントが出願された。 内容は3つのタイヤの設置面で描いた三角形内にステップがあることだった。 つまり当たり前を出願しており、これが登録されれば他社の三輪バギーはパテントに抵触してしまう。 その後、登録されたのかは知らないが、他社の猛烈な異議申し立てで登録にはなっていないと思う。
三輪バギーの開発は四輪バギーに移行していく。

  本業があるので、KXT250のエンジン開発以後はバギー車関係の仕事から
離れ、本人の意向もモトクロス車エンジンの開発をしたい時期であった。
KXT250_TECATE用エンジンの開発


  H社の三輪バギーが訴えられた要因はステップの後ろに太いタイヤがあることで、転倒した折に後輪タイヤで足を引かれる事故が多発したことと記憶している。 
三輪スポーツバギー車用エンジン
車体は新規開発されたものであるが、エンジンはKX250を
ベースにT/Mギヤレシオを全て変更している。
三輪バギー車と言え、エンデュー車なので排気には
スパークアレスターとヘッドライトを装備している。
1984年、事業部長表彰に添えられていた記念写真。
事業部長表彰の賞金は10万円だったと記憶している。
開発を担当したのは車体設計1名、エンジン設計1名であったが、そこに設計上司、
試作関係者、営業部が名乗り出て来て20数名が表彰状を貰っていると思う。
こう言うことに ”火事場泥棒”が出て来るのが会社なのだ。
日本側の開発ライダーは坂口君が担当したが、当時、日本側での走行テストは殆どしていない。
ある時、立合いテストでアメリカ人ライダーが2人やって来た。 彼らの三輪バギーの走行に
日本人関係者一同はびっくりした。 日本人ライダーはおっととと曲がるが、アメリカ人ライダー
は回転半径ゼロでスピンターンさせるのであった。 これでは日本人はスタジアムレースで勝てる訳はないと思った。 モトクロスの全日本チャンピオンがスタジアムレースに出ても予選落ちするのが現状であり、とてもスタジアムレースで三輪バギー車は乗りこなせなかった。