(高校1年生16歳)
1965年07月24日〜08月16日 24日間

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Road Map :精神的に弱って来たが、九州1周だけはやり遂げておく。
Route Map:九州1周を終えて家に帰るには本州を後4日間走る必要があったので、
            別府港まで走り瀬戸内フェリーで帰宅することにした。
自転車旅行』  九州1周も後半に入るとマンネリ化して、写真がめっきり減ってしまったのが惜しまれる。
1965年08月05日 都井岬から帰宅まで
 予定では大隅半島側の南大隅からフェリーに乗って薩摩半島側の山川港へ渡る予定であったが、台風接近により大雨にあい、予定が送れがってになってしまったので、桜島にから鹿児島へ渡ることに変更した。
  一路、熊本の三角港に向かうが、その間には行きたい観光地は無く、ひたすら自転車をこぐだけに終始して、写真を撮ることも殆どなかった。 体力はまだ維持出来ているが、精神的には弱って来た。

詳細を記録していた旅行日記に感謝する
  旅行日記を付け出したのは、今回の九州1周サイクリングからで、詳細なことまで全てを書き残していた。 56年後にHPを作成しようと思ったのも旅行日記があったこそであり、読み返せば多くの記憶は戻って来た。 旅行日記は長文なものなので、
HPには多くを少落して、重要項目だけを抜粋して書き写した。
  当時もカラー写真はあったが、カラーフィルムも現像も高くて高校1年生には手が出ない世界であった。 パソコンで疑似カラー化は出来たが、アルバムに張り付けていた写真をスキャンした物なので、元の写真の画質が悪く、綺麗なカラー写真になる訳がなかった。 しかし、無料で白黒写真を疑似カラー化出来ることには驚く。
2年後の ”沖縄40日間徒歩旅行
  今回の24日間の自転車旅行で鍛えられた精神力が2年後の ”沖縄40日間徒歩旅行”に繋がったと思う。 ”沖縄40日間徒歩旅行”もHPにまとめてみるか・・・
九州1周自転車旅行 (その4)
きゅうしゅう1しゅうじてんしゃりょこう
目的の阿蘇山、日南海岸の観光が終わると、後は残り半分を走るだけとなってしまった。
8月5日 13日目、都井岬〜志布志市。
  都井岬を出発してからはR448を西進して志布志に入ると綺麗な海があったので息抜きに潜ってみると台風の
余波の大きな波で岩に打ち付けられ、潜りは断念した。
  朝から何も食べておらずに腹が減って来たが一向に食堂が出て来ない。食堂を見付けた時には直ぐに飛び込んだ。台風の影響で強い雨が降って来た。 これはチャンスとばかりに泊めて貰えそうなお寺を探すが、2件で断られた。
仕方なく、一般農家に軒下を雨宿りに貸してくれと懇願すると、夕飯とお風呂、宿泊まで了承して頂いた。
家に電話しておけのお言葉に甘えてお袋に電話すると、長崎から電車で帰って来いと偉く心配していた。
この農家にはあくる日の朝食も頂き、お弁当まで作って頂いたのに、お名前も住所も記録には残していなかった。
8月6日 14日目、志布志市〜桜島〜川内市。
8月7日 15日目、志布志市〜田浦町。
予定だった薩摩半島側の指宿に行くのを取り止めて、
少しでも近い ”桜島”から鹿児島市に行くことに変更した。
”桜島”は大隅半島側と繋がっており、半島となっていた。
大隅半島側のR220から桜島側のR224にシームレスで入る。
”桜島”全体が溶岩流で出来た島であり、活火山である桜島の山頂からは
ガスが噴出していた。 得意な景観に目を奪われながら自転車を進める。
”阿蘇山”で溶岩原を見ているとは言え、特異な景観には驚きと感激であった。
山頂へ行く道は歩いてしか行けない登山道だったので中止する。
溶岩道路と呼ばれているR224は綺麗に舗装はされていたが、路面には
沢山の火山灰が積もっており、車が通り過ぎるとホコリまみれになった。
桜島港から人+自転車 70円のフェリー代を払って鹿児島港に渡る。
8月6日は志布志の農家で泊めて頂き、朝食を頂いて弁当まで作って貰った。
  農家から出発するのであるが、台風の余波でまだ風がビュービュー吹いていて自転車が前に進まなかった。
一路、”桜島”に向けて走り続けるが、”桜島”までの道中では特筆するものが何も無く、写真を撮ることも無かった。
”桜島”の大隅半島側は ”桜島”と陸続きであり、簡単に ”桜島”に入ることが出来た。
  ”桜島”は活火山の島であり、一面が溶岩原であり、国道には火山灰が降り積もっており、車が通る毎に火山灰を巻き上げてくれた。 ”桜島”を半周する様に走り、桜島港からフェリーに乗って鹿児島市に渡る。
  ビルが立ち並ぶ鹿児島市街は大阪、神戸と同じで、見所は何も無く熊本に向けて走ろうとするが、道が判らずに迷子になる。 R3を見付けることが出来、串木野に向けて走っていると、倒壊している住宅が目立つ様になって来た。
昨日の台風で倒壊した様である。 昨日は布団で熟睡していたので、台風の大きさには気付かなかった。
  川内市街に入り、今日は旅館に泊まろうと安そうな旅館を探すと、町中が停電しており、泊めてくれる旅館が見付からない。 台風で布団が濡れてしまったとかで4軒の旅館に断られて、駅のベンチで寝ようかとも思ったが、5軒目の旅館が停電ながら泊めてくれることになった。 お風呂はお湯が出なかった。 写真を殆ど撮らずに1日が終わる。
  ついでなので旅館に朝飯を頼むと、ごはんと生卵だけで良いのに、豪華な朝飯が出て来て850円も取られた。
2度と旅館には止まらないと反省する。
  疲れが溜まって来た中、海岸線沿いのR3を北上して行く。 又、自転車のスポークが3本折れてしまった。
30kgの荷物と悪路がスポークに負担が掛かっている様だ。 ここまでに12本のスポークが折れている。
  今日の走行もペースが上がらずに距離が稼げない、休憩時に少し横になると1時間半も昼寝してしまった。
田浦町に入りに食堂で肉どんぶりを食べて、付近の小学校に宿泊のお願いしに行くと、あっさりと断られ、近くの
中学校に行くとあっさりとOKしてくれた。 宿直室で宿直の先生と同じ部屋に寝ることになったが、贅沢は言えない。
宿直の先生は夜食にラーメンを作ってくれて、御馳走になる。
  今日は1枚の写真も撮ることが無かった。 進むにつれて写真が少なくなっていく。
8月8日 16日目、田浦町〜雲仙岳。
  泊めて頂いた小学校の先生にお礼を言って、再びR3を北上して行く。 峠の地道には苦労する。
夜になると ”不知火”(しらぬい)が見えると言う 日奈久町に入り食堂で朝飯を食べる。
  宇土市に入り、直進して熊本市街に向かうか、左に曲がり島原半島の雲仙に行くか悩んだが、熊本に
行っても見たい所は思いつかないので、フェリーに乗って島原半島から雲仙に行くことにした。
海岸沿いの風光明媚なR266を西進して、フェリー乗り場の三角港へ向かう。
  三角港には2時丁度に付いたが、次の便は3時10分まで無かった。
ぼんやりフェリー待ちしていると、売店の可愛い女の子がやって来て「 どこから来たの? 」
と聞いて来たので「 兵庫県の西宮から来たと・・・」と答えるとドヒャー!と驚いていた。
しばし、話しをするが上がってしまい住所を聞くのを忘れてしまい、一緒の写真も撮らなかった。
  フェリーに乗っている間は、のんびりと天草の島々を眺めることが出来た。
当時沢山あった ペプシ―コーラの瓶の自販機が写っている。
この壮大な普賢岳 ”雲仙地獄”を見ておきながら、記憶にはまったく残っていなかった。
  島原港に着いてからは雲仙岳を越えることにした。 県道207号線をひたすら上って行くが、
半端な坂では無かった。 上り途中で日暮れて来たので、道路脇の原っぱで寝ることにした。
  台風の大雨にあったのでシュラフが湿っており、冷たくて寝難かった。
寒くて夜中に目が覚めると、周りに灯火が無い山中だったので、満天の天の川を見ることが出来た。
8月9日 17日目、雲仙岳〜高来町の親戚の家。
  明け方、湿ったシュラフに更に夜露が加わり寒くて寝て居られなかった。
2〜3日前から左足の関節が痛くなっていたが、今朝は体が冷えた影響か、足が動かなくなってしまった。
  雲仙岳の残りの上り坂は自転車を押して歩く。 雲仙岳のR・W乗場に着く頃には、気温の上昇と共に足の痛みはなくなってくれた。 R・W乗場のお土産屋さんで、お土産を4つ買って自宅に送っておく。
< ここからは記録には残っているが、記憶にはまったく残っていない >
  R57の下りに入ると、途中に ”雲仙地獄”なるものがあったので観光しておく。
これもネット検索から探して来た ”雲仙地獄”の写真であるが、
こんな壮大な景観を見ていれば記憶に残っていてもよさそうなものだが・・・
”雲仙地獄”の記憶が残っていなかったので、白黒写真を撮っている
同様の場所をネットから探して来たが、記憶はまったく戻らなかった。
これもネット検索で探して来た ”雲仙地獄”の写真であるが、
この写真を見て北海道の ”登別地獄谷”とそっくりなのに気付いた。
  雲仙岳を軽快に下り、どこを観光することもなく、諫早市に入り、県道136号線ににて、
親戚のある高来町の湯江村に向かう。 西も東も判らない湯江村の田んぼ道で子供に草野さんの家を知らないか?
訪ねると、そこを歩いているよ! とびっくりする返答だった。 親戚宅にずばり的中していたのだった。
  姉婿の実家である、親戚の家にお世話になる。 おいらが行くと連絡が入っていたらしく、叔父さんは驚かなかった。有明海の干潟が直ぐ近くの家であり、海岸まで散歩に行く。 ”ムツゴロウ”が泥の上でピョンピョン遊んでいた。
親戚の家に戻り、湿ったシュラフとテントを干しておく。 お袋に電話して無事に親戚に着いたことを連絡しておく。
  海沿いの家であり 夕食は刺身で歓待頂いた。
8月10日 18日目、バスで ”轟の滝”へ行く。
親戚宅の勧めで直ぐ近くの ”轟の滝”へバスで行く。何故、自転車で行かなかったのかは?。
バスで ”轟の滝”(落差10m)に行った記憶はあるが、詳細の記憶は残っていない。
”轟の滝”の下流部は ”轟渓流”と呼ばれている清流らしい。
”轟の滝”を見た記憶はあるが、大した滝では無いと判断したのか、
”轟の滝”の写真を撮っていなかった。 なんで?
ネット検索で拾って来た ”轟の滝”の写真。
確かに大した滝では無かったが、写真は撮っておくべきだったろう。
8月11日 19日目、電車に乗って長崎観光に出掛ける。
  ”轟の滝”はお気に入りとはならず、直ぐに親戚宅に戻り、近くの海岸に行き ”ムツゴロウ”と遊ぶ。
石を投げて2〜3匹の ”ムツゴロウ”捕まえることが出来たが、深追いすると泥で足が抜けなくなった。
  ”親戚の叔父さんの案内で長崎観光に行くことになった。 よって足は自転車でなく、電車となってしまった。
まずは長崎市街で一番高いデパートに案内され、長崎湾を展望する。
普段から神戸港を見慣れているおいらに取って足したことはなかった。
次に長崎では有名な ”グラバー邸”を案内して頂く。
”グラバー邸”の周辺には高校生の遠足? 修学旅行?が来ていた。
大自然の景観が好きであり、この手の偉人には興味なかったが、
それは叔父さんに言えなかった。
当時 ”三浦環”の石像が何者か判らなかったが、ネット情報によると、
  世界的に有名なオペラ「マダムバタフライ」は長崎が舞台になっており、物語に登場する景色はまるで旧グラバー住宅から望む景色を思わせる描写です。戦後旧グラバー住宅で暮らした進駐軍の大佐夫人は住宅から見える景色に魅了されて「マダム・バタフライ・ハウス」という愛称をつけました。現在園内にはオペラ「マダムバタフライ」のプリマドンナとして有名になった三浦環と作曲者のプッチーニの石造が立てられています。
らしいが、誰も興味はないわなー。
展望デッキからも長崎湾を一望することが出来た。
グラバー邸内にあった展望デッキに寄ってみる。
”大浦天主堂”を外から見ておく。
平和公園に立つ ”平和記念象” 長崎観光のメッカの様であった。
8月13日 21日目、高来町の親戚の家〜鳥栖市まで。
  親戚の家には1週間程、お邪魔して近隣の観光をしたいと思っていたが、段々居辛くなり、お袋からの長崎から
電車で帰って来いは無視して、今日、サイクリングの残りを消化することにした。
  朝食を御馳走になりお弁当も作って頂いた。 朝8時の出発間際におじさんから餞別金を頂いたが、餞別金の額が
どこにもメモされていなかった。
  県道136号線を諫早まで戻るのであるが、途中、昨日の雨で泥道となり、重い泥がタイヤとフェンダーの間に入り込み、タイヤが廻らなくなってしまった。 泥道を自転車を押して歩いていると、道路工事をしていた土方から
泥水の中を押して歩けば泥が落ちる。 とのアドバイスを頂き、泥水の深い所で自転車を押して歩くと、見事、タイヤの泥が落ちてくれた。 有難いアドバイスであった。
 R34号線沿いの 千綿の海岸で作って頂いた弁当を広げると びっくり! 一つの折におかずがびっしり詰まり、
もう一つの折には巻きずしがびっしり詰まっていた。 有難い配慮に深く感謝する。
  海岸沿いのR34号線から、山中の嬉野温泉に向かう。 鳥栖市辺りで、今夜の寝床を探しながら走る。
鳥栖神社があったので、今夜の寝床候補として、もう少し先に進むと、小学校があり、ここに泊ろうと宿直室を探すが、宿直室が見付からなかったので、無断で廊下を寝床に宿泊する。
今日1日は1枚の写真も無く、旅日記の文章抜粋だけとなってしまった。
8月12日 20日目、親戚の家で過ごす。
  今日は何の予定も入れず、1日、ブラブラして過ごした。
こんな状態で親戚の家に長いするのはまずいので、明日にはサイクリングを再開することにした。
8月14日 22日目、鳥栖市〜前川。
  夜中に又もややぶ蚊に襲われて眠れなくなってしまう。 お月さんがやけに綺麗であった。
眠れないので色々考えてしまった。 目的の九州1周を終えて自宅に帰るには4日のサイクリングが必要であるが、
1日掛けて別府港へ行き船に乗れば1日で自宅に帰れる。 この線で行こうと決めてしまう。
  今日中に別府港に着くべく、夜の2時30分を小学校を後にして走り始める。 満月の下で走るのは気持ち良かっ
たのだが、タイヤがフロントフォークに擦れて動かなくなってしまった。 工具を持っているので修理は簡単に出来た。   夜中でも開いているモーテルがあったので、長崎チャンポンを食べて腹を満たす。
朝の5時には福岡市街を通過して、仁部君が書いてくれた地図を頼りに福間で道をそれて海岸沿いの津屋崎に向かう。
仁部君の家は直ぐに見付かり、「やあー!」と挨拶して積もる話しを長々とする。
朝ごはんを御馳走になり、「ゆっくりして行けと」と言ってくれたが、今日中に帰宅作戦があるので、早々に別れる。
  走り出して又、20本目のスポークが折れた。 この頃のスポークは材質が悪いのかよく折れる。
小倉に着くと、最初の計画通り門司から本州を4日間掛けて帰宅するか、別府港まで行って船で帰宅するのか、再度
悩みだしたが、本州の同じ道を2回も走るのはバカらしいので、変更した計画通りに別府港に向かうことにした。
  日暮れだし、今日中に到着する予定の別府港には届かず、行橋付近から適当な寝床を探しながら走る。
お寺を見付け、宿泊のお願いをすると、下の公民館で宿泊出来るからと紹介してくれた。 公民館の管理は畳屋がしているらしく、畳屋に宿泊を頼みに行くと快く了承して頂いた。 畳屋に兵庫県から来て九州1周を終えた話しをすると、
晩御飯を御馳走してくれて、朝飯も食べに来いと言ってくれた。 近所の銭湯で汗を流し、後は爆睡する。
8月15日 23日目、前川〜別府港〜神戸港。
  夜朝飯を御馳走して頂く約束であったが、時間が勿体なので、早々に走り始める。
途中で菓子パンを4ヶ買って、これも時間稼ぎで走りながらパンを食べて朝食とした。
別府港には12時過ぎに着いたが、神戸港行きの船は出ているのか? 何時の出航なのかも判らず不安で一杯で
あったが、15時30分に神戸港行きが出ることが判り、頑張り過ぎたことになってしまったが、今日の船に乗れることに安堵した。 家に帰れるのは明日の8時15分になる。 餞別を貰っている以上、お土産が必要なので別府港でお土産を買いまくる。
8月16日 24日目、別府港〜神戸港〜帰宅。
2等の乗船料は1,210円、自転車は850円で計、2,060円也。
これには宿泊費も含まれているので、思ったより随分と安かった。
本州を4日間、自転車で走ったら食事代だけでも、これを超すのは明らかである。 往路も船にすべきだったのかも知れない。
早朝には神戸港のポートタワーが見えて来た。24日間のサイクリングはこれで終わりではなく、神戸港から西宮の自宅までサイクリングをする必要が残っている。
悪路に耐え切れず、スポークが計20本も折れる不具合があったが、何とか
24日間を走り切ってくれた自転車は、これからも通学に使用して行く。
鹿児島県 仮屋市からは九州1周も残り半分となるが、特に興味ある所は無く、淡々と距離を稼ぐだけとなる。
普賢岳の ”雲仙地獄”
”長崎国際文化会館”は当時、原爆資料室があったらしいが、資料室を見学した記憶は無い。
和現在は ”原爆資料館”として建て替えられているらしい。