1992年〜

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エンジン開発履歴』 まったく望まなかったがK・R・Tのロードレース運用チームへの出向が命じられる。
KRTの名刺には・・・
  会社が作ってくれた名刺には職級は課長、チーフエンジニアリングの肩書があり、職名は華々しいが、現実の仕事はメインが実走マシンのデーター収集、部品の追加工、部品運搬、本社レースチームと技術面での打合せ、作業依頼であり、月に2回の実走テスト、WSK参戦がある。 月の半分は土日出勤となり代休は
取れない。
幸い、1年で本社に復帰出来た。

  通常、出向すれば5年は戻れないのが常識らしいが、明石工場から転勤になるかも知れない。 ならばKRTに逃げ込みたいと名乗り出た若いエンジン設計者がいた。 彼のお蔭で1年で本社のレースチームに戻ることが出来てバンザイ三唱となった。KRTを去る時には超過残業が100時間以上、代休が20日以上も捨てることになった。
カワサキ・レーシング・チームに出向


カワサキ・レーシング・チーム(KRT)が発足する。
 
全日本ロードレース選手権の参戦は技術部の社員で構成されたチームで運用されていたが、販社に新たにロードレース運用チームが作られカワサキ・レーシング・チーム KRTと
名付けられた。 チーム監督、チーフエンジニア、チーフメカニックのみがカワサキ社員
からの出向となったが、マネージャとメカニックは契約人員で構成された。
販社でのチーム発足の狙い。(個人的な思い!)
  これまではカワサキ社員でレース運用がなされて来たが、社員には労働組合との約束事が多く、休日出勤には代休を、残業時間には制限が科されていた。
  つまり、レース担当者を死ぬほど働かせるには労働組合と切り話す必要があったのだ。
KRTのチーフエンジニアに任命される。

  当時、ZX7Rのエンジン設計を担当していた関係からかKRTの出向を命じられたが、強く拒否して、労働組合にも乗り込んだが、会社側と癒着している労働組合への訴えは相手にして貰えなかった。 チーフエンジニアと言ってもエンジニアは一人だけで、結局、雑用掛かりである。 販社の作業服を来て本社の技術部へ図面を書きに行くのはメチャクチャかっこ悪かった。
過酷な労働条件。(レースが好きでないとやっていられない)
  本社では主事(係長)であったが、販社に出向するとワンクラス昇格して課長扱いになってしまう。 課長手当で少しは給料が増えるが、長時間の残業代が支給されなくなる。
  レースシーズンは事前走行テスト、レース本番で月4回は休日出張となり、代休を取る暇もなかった。 出向期間は5年以上の約束であったが、訳があって1年で復帰出来た。1993年度 スズカ8耐で悲願の優勝を果たすが・・・
  KRTではSBレースを通じて8耐レース車の開発を行っていたが、8耐に関しては本社側に外人ライダーでチーム運営を行っており、8耐では カワサキ本社チームとKRTが争うことになり、本社チームがカワサキ悲願のスズカ8耐の優勝を勝ち取った。
  KRTも全日本TTーF1年間チャンピオン2のライダーを配し、スズカ8耐 5位入賞を果たしており、これも立派な成績であった。
スズカ8耐の優勝に向けて・・・
KRT発足
GP500 GP250 GP125 TT-F1 TT-F3
1984年 平忠彦(ヤマハ) 小林大(ホンダ) 栗谷二郎(ホンダ) 八代俊二(モリワキ) 江崎正(ヤマハ)
1985年 平忠彦(ヤマハ) 小林大(ホンダ) 畝本久(ホンダ) 辻本聡(ヨシムラ) 山本陽一(ホンダ)
1986年 木下恵司(ホンダ) 片山信二(ヤマハ) 吉田健一(ホンダ) 辻本聡(ヨシムラ) 山本陽一(ホンダ)
1987年 藤原儀彦(ヤマハ) 清水雅広(ホンダ) 畝本久(ホンダ) 大島行弥(ヨシムラ) 田口益充(ホンダ)
1988年 藤原儀彦(ヤマハ) 本間利彦(ヤマハ) 廣瀬政幸(ホンダ) 宮崎祥司(ホンダ) 塩森俊修(ヤマハ)
1989年 藤原儀彦(ヤマハ) 岡田忠之(ホンダ) 山崎冬樹(ホンダ) ダグ・ポーレン(ヨシムラ) ダグ・ポーレン(ヨシムラ)
1990年 伊藤真一(ホンダ) 岡田忠之(ホンダ) 坂田和人(ホンダ) 岩橋健一郎(ホンダ) 鶴田竜二(カワサキ)
1991年 ピーター・ゴダード(ヤマハ) 岡田忠之(ホンダ) 小野真央(ホンダ) 宮崎祥司(ホンダ) 高橋勝義(ヤマハ)
1992年 ダリル・ビーティー(ホンダ) 原田哲也(ヤマハ) 斉藤明(ホンダ) 塚本昭一(カワサキ)  
1993年 阿部典史(ホンダ) 宇川徹(ホンダ) 加藤義昌(ヤマハ) 北川圭一(カワサキ)  
全日本ロードレース選手権 歴代チャンピオン
KRTに所属時代は好きで無い仕事だったので記録も写真も何も残っていない。
唯一、冬季のオーストラリアテストは楽しかった。
エンジンの詳細に付いては ”TT−F1”、”SB750”を参照あれ。
1993年1月31日〜2月6日
オーストラリア・フィリップ・アイランド・サーキットテスト
オーストラリアの南東部の都市であるメルボルンから更に南東部に ”フィリップアイランドの中に ”サーキット”がある。
全長4.4kmのフィリップアイランド
サーキット。
KRTのメンバーは8名であるが、マネージャーは明石で留守番の貧乏くじを引いている。
日本では真冬の1月であるが、オーストラリアは真夏である。
フィリップアイランドは南極に近いので真夏の暑さは無く、涼しくて過ごし易かった。
全長4.4kmのほぼフラットなフィリップランドサーキット。
日本チームとオーストラリアチームで貸切りとする。
マイクロバスはKRTメンバーの送迎用のレンタカー。
カワサキマークのトラックはピーター・ドエル率いる
チーム・オーストラリアのものである。
塚本ライダー、北川ライダーでのテスト走行風景。
この年、塚本ライダーは昨年のチャンピオン、ゼッケン ”1”であり、
北川ライダーはゼッケン ”2”を背負っており、
KRTはTT−F1では最強のチームであった。
本社チームも来ており、本社チームは
8耐レース関係のテストをしていた。
サーキットは貸切りなのでのんびりとテストが進む。
KRT
KRT
今回、イギリスのPI社から購入したデーターロガーを持ち
込んでおり、イギリスからPI社の ”グラハム”さんが
レクチャーにやって来た。
PI社のデーターロガーでは10チャンネルの計測が同時に
取れて走行が終わると即座にモニターで見ることが出来た。
データーレコーダで走行中のデーターを取るのとパソコンで
データー整理するのがおいらの仕事であったが、サスの動きの
データーを見てもチンプンカンプンであった。 サスの動きの
グラフを理解出来るのはチーフメカニックだけであった。
ネットで見付けて来た フィリップアイランドサーキットでのロードレース模様。
小さな島なので風光明媚な景観である。
休日はフィリップアイランドの海水浴場で海水浴を楽しんだ。
夜は近くのレストランで食事するが、特大のロブスターも特大のステーキもびっくりする程に安く、日本では高くて味わえない
食事が出来た。 写真を撮っておくべきであった。
天気には恵まれ、テストは順調に終了して帰路に着く。
KRT結成後は2年連続で TT−F1クラスで年間チャンピオンを獲得している。
全日本選手権 TT−F1ロードレースはスプリントレースではあるが、
スズカ8耐での勝利を目指して一部は耐久仕様としている。
乾式クラッチを設計した覚えがあるが、走行テストだけして
本番では使っていないと記憶している。 何が悪かったのか覚えていない。
細かい所では市販車は各部の締め付けにKIS規格の鉄ボルトを使っているが、
ファクトリー車にはチタンボルト、又はアルミボルトを仕様している。
TT−F1ファクトリーエンジンの改造箇所。(一部抜粋)
ヘッドの燃焼室は圧縮調整の容積合せの為に総削りとし、
バルブはチタン、バルブシートはベリリュームカッパ―を
使用、バルブステムは銅合金を使用。
吸気ポートはベンチメカニックにより入念にポーティングされている。 インテークポート面積は量産時から充分広められているので、昔の様なポート通路拡大は行わない。
クラッチリリースは量産車の油圧リリースからメカニカル
リリースに変更している。 カワサキのお得意芸である
BTC(バック・トルク・リミッタ―)はそのまま継続。
クラッチギヤ(一次減速)には全体のギヤレシオを変更出来
る様にギヤ歯数のバリエーションを準備している。
全てのギヤ、スプロケットに対して、量産ギヤ歯数の前後一丁違いを準備していたが、750ccエンジンのパワーバンドが広いのでギヤ比を変更することは殆どなかった。
パーツリストが手に入らなかったので改造の詳細は避けるが、TT−F1で許されている改造は全て行っている。
・カバー類    :アルミダイカストから砂型Mg化で軽量化。
・カムシャフト:鋳鉄カムシャフトを総削りカムシャフトで
                軽量化。
・CRシャフト:ウエブの追加工にフラマスダウン、細かな
                バランス取り、面粗度アップによりフリクシ
                ョンダウンダウン。
・ゼネレータ  :コバルトロータ―のインナーロータ―化。
・ラジエータ  :上下二段化により冷却面をアップする。
・オイルクーラ:量産車の水冷オイルクーラを継続。
・EXパイプ  :量産車の鉄パイプからt0.75のチタン
                パイプで軽量化。
・サイレンサー:カーボン製外筒、チタンバッフルパイプにて
                軽量化。
・試作課工場  :当時の試作課はレース部品の製作に理解が
                あり、8耐部品と言えば優先して作業を行っ
                てくれた。 TT−F1で2年連続チャンピ                 オン、8耐優勝を勝ち取ると後は試作課は
                量産車の為にあるとレース関係部品の製作に
                冷たくなった。
                H社はレース関係の部品製作だけの試作部門
                があるらしい。